外伝:白銀の迷子
シエルを保護した数ヶ月後に、ティールは道端で彼を見つけます。
白いもふもふに、愛を込めて
1.雨の日の、白い塊
シエルを邸宅に迎え入れてから、数ヶ月が経った頃の、ある激しい雨の日。
特級執行官としての任務を終えたティールは、濡れた外套を僅かに揺らしながら、王都の裏路地を歩いていた。
ーーーーーカツ、カツ、カツ………カツン
いつも通り、周囲の悪党どもを震え上がらせる冷徹なハイヒールの音。だが、その音が、あるゴミ捨て場の前でピタリと止まった。
「……くぅ、……ん」
激しい雨音に消されそうなほど、か細い鳴き声。
ひっくり返った木箱の隙間、雨と泥水に塗れたボロ布の中に、それはいた。
生後数ヶ月ほどだろうか。泥で灰色に汚れた「子犬」だった。寒さと恐怖で、小さな身体をこれ以上ないほど丸め、ガタガタと震えている。
ティールは前髪の隙間から、青緑のその目を子犬へと向けた。
「……お前もその目を持っているのか」
直立不動のまま、ぽつりとつぶやき、眼下の小さな命を見下ろすティール。どういう因果か、この子犬……シエルとよく似たスカイブルーの瞳を持っていたのだ。
ガタガタと震えるさまにあの時のシエルがフラッシュバックし、どうにもティールの胸を掻き乱す。そして、その脳内は、シエルの時と同様に、困惑と動揺に包まれていた。
(なぜこのような場所に捨てられている……?怪我はないようだが、この激しい雨だ、あと数時間も放置すれば、この命は容易く消えてしまうだろう。はぁ……この数ヶ月の僅かな期間に何故こうも脆弱な存在が私の前に現れるのか……)
脳内で超真面目にリスク分析を終えたティールは、静かに、優雅に腰を落とした。
そして、仕立ての良い手袋をはめた両手で、まるで壊れやすい硝子細工を救い上げるように、そっと子犬を抱き上げた。
「くぅ?」
手袋越しの温かい手のひらに包まれ、子犬が不思議そうに、これまたシエルとよく似たスカイブルーのまだあどけない瞳でティールを見上げる。
「……よく耐えたね」
ティールは静かに告げると、子犬を外套の内側、自身の胸元へとそっと滑り込ませた。温かい体温に包まれ、子犬はすぐに安心したように、小さな鼻をティールのシャツに擦り付けたのだった。
2.小さな守護獣
「――ティール様、お帰りなさいませ! ……あら? その胸元の灰色のものは……?」
パタパタと邸宅の玄関で出迎えた、亜麻色の髪をスカイブルーのリボンで結んだ幼いシエルが、不思議そうに首を傾げた。出会った当時から比べれば劇的によくなった肌色。あらゆる知識の吸収力が抜きんでて良かったシエルは、ここ数か月ですっかり年頃の少女を超える品位を身に着けつつあった。身近に一番の手本があるのも大きいが、一番は彼女自身の決意と意欲が実を結んだと言えよう。
ティールは無言のまま、外套の内側から泥で汚れた灰色の塊をそっと取り出し、シエルの目の前の絨毯へと下ろした。
子犬は、初めて見る綺麗な床に緊張したのか、ぷるぷる…と身体を震わせ、その場にぺたんと座り込んでしまう。
「ま、まあ......! こ、子犬、ですか……!?」
「ああ。路地裏で雨に濡れていたのでね。シエル、この前の要領だ。今度はお前がこの子をお風呂に連れていき、綺麗に洗いなさい」
「はい、ティール様! お任せください!」
シエルはまるで誕生日プレゼントでも貰った子供のように嬉しそうに子犬を抱き上げると、お風呂場へと走っていった。
一人残されたティールは、自分のシャツについた泥の跡を見つめながら(……今回はシエルが洗ってくれて助かった)と、密かに安堵していた。
一時間後。
すっかり綺麗になり、本来の白銀のモフモフを取り戻した子犬が、食堂のソファーの前にちょこんと座っていた。
シエルが丁寧にブラッシングした毛並みは、まるで純白の雪のようで、ティールの邸宅の気品に驚くほど調和していた。
「ティール様、この子をこのままここで保護なさるのでしたら……名前はどうなさいますか?」
シエルが期待に満ちた目で尋ねる。まだ九歳の幼い少女にとって、小さな家族はとても嬉しかったらしい。
ティールはソファーに深く腰掛け、白磁のカップを傾けながら、前髪の隙間から子犬をじっと見つめた。子犬は、ティールから放たれる圧倒的な覇気に怯えるどころか、むしろ「この人は私を救ってくれた特別な存在だ」と理解しているように、ちぎれんばかりに短い尻尾を振っている。
「……白銀。お前のその美しい毛並みに免じて、今日から我が家の庭園の守護獣に任命しよう……ただし、私のお茶会の静寂を乱すような無駄吠えは禁止だ。いいな?」
「きゃんっ!」
子犬は、まるでティールの言葉を完璧に理解したかのように、短く、賢そうに一度だけ吠えた。
3.「まさか…」
ーーーーカツン……
そして、あれから七年がたった現在。
初夏の爽やかな風が吹き抜ける、いつもの美しい庭園のテラス席。
「……」
ソファーに深く腰掛けたティールは、自身の膝の上を見つめ、ぽつりと呟いた。
「……まさか、ここまで大きくなるとはね、シルヴァ」
そこにあったのは、かつてティールの両手に収まっていた、あの泥だらけの小さな白い塊ではなかった。
今やティールの長身の膝を完全に覆い尽くし、下手をすればシエルよりも体重がありそうな、圧倒的な存在感を放つ白銀の超大型犬――シルヴァが、ドス、と特等席に顎を乗せて甘えていた。
実はこの犬、ただの犬ではなかったようで、その身には魔力が秘められていた。つまり魔獣に近い存在であるようで、大きくなったのもおそらくその血のせいだろうとの事だった。
その証拠に、シルヴァの体内には魔力が循環しており、戦うことだって出来るほどに成長したのだから驚きである。特別な訓練を行ったわけでもないのに忠実にティールの指示に従うさまは、立派なこの家の守護獣の姿だった。
「くぅ……ん」
「まさか、もう可愛くなくなっちゃった?」とでも言ってきそうな程に雄弁な瞳。
身体は巨大な守護獣になっても、ティールに向ける甘えたような上目遣いと、スカイブルーの瞳の輝きは、あの路地裏の日のままである。
「ふふ、本当にそうですね、ティール様。当時はあんなに小さくて、私が抱っこしてお風呂に入れていたのに、今やブラッシングをするだけで私の腕が筋肉痛になりそうです」
同じく十六歳になった完璧な給仕シエルが、スカイブルーのリボンを揺らしながら、クスクスと楽しそうに紅茶を注ぐ。
その横で、グレイがシルヴァの巨躯を見ながら感嘆の息を漏らしていた。
「これだけの巨体でありながら、ティール様がお茶を召し上がる瞬間は、毛一本、空気一つ揺らさない。まさに王者の守護獣に相応しい風格ですね……」
「当然だよ、グレイ。シルヴァは私の最初の『無言の約束』を守り続けているからね」
ティールはフッと大人の余裕に満ちた笑みを浮かべ、いつもの優しい手つきでシルヴァの白銀の耳の後ろを撫でた。シルヴァは嬉しそうに「ふすぅ……」と鼻を鳴らし、主の指先に身を委ねる。
路地裏の小さな泥まみれの命は、ティールの不器用で深い愛によって、美しい大人の守護獣へと成長したのだ。
白磁のカップから立ち上るハーブの香りと、シルヴァの極上のモフモフ。彼らが勝ち取ったこの完璧な日常は、過去のどんな小さな出会いをも大切に育んできた、ティールの優しさの結晶そのものだった。




