外伝:青空の檻(下)
4.完璧な世界の、最初の生徒
「そう簡単に他人に謝るものではないよ」
ティールはカツ、とハイヒールを鳴らしてシエルの前に歩み寄ると、再びその場にすっと姿勢を低くした。
そして、泥と傷で汚れたシエルの小さな手を、自身の細く綺麗な両手で、そっと包み込んだ。
「私が求めたのは『最初から何でもできる道具』ではない。お前が自分の意志で、私の後ろを歩くことを選んだ……その事実だけで、十分すぎるほどの価値がある」
ティールの手のひらは、大きくて、とても暖かかった。
シエルが呆然とスカイブルーの瞳を見開く中、ティールは前髪の隙間から、自信に満ちた気高い笑みを浮かべてみせた。
「何もできないのなら、これから私がすべてを教えるまで。カップの持ち方も、美味しいお茶の淹れ方も、もちろん文字の読み方もね」
「そんな、めんどう……では、ないんですか……」
「そんなはずがない。私は、守ると決めたものは最後まで守り抜く……だからシエル、君は気高くあれ。己の意志を持ち、決して揺るがぬ者となれ」
ティールは優しく、シエルの淡い亜麻色の髪を撫でた。
その瞬間、シエルを縛り付けていた、目に見えない「恐怖の檻」が、完全に砕け散った。
この人は、何もできない自分を受け入れてくれた。自分の存在そのものを、全肯定してくれた。
少女の瞳に、温かい涙が溢れ出す。それは、十七年前に滅びたアッシュフォードの王女が、世界に残された幼く儚い命へと注いだ、どこまでも深く、静かな愛の証だった。
「……はい。はい……! 私、がんばって、べんきょう…します。あなたに、一番おいしいお茶を、いれられるように……!」
小さなシエルが、ティールの胸にそっと顔を埋めて泣きじゃくる。ティールは、まさか泣かれるとは思っていなかったので、内心焦りながらも、不器用な手つきでその小さな背中を静かに抱きしめ続けるのだった。
5.慣れぬ手付き
ティールの胸の中でひとしきり泣きじゃくり、ようやく落ち着いたシエルを連れて向かったのは、大理石で造られた広々としたバスルームだった。
地下牢の冷たい水しか知らなかったシエルにとって、湯気の向こうで優しく揺れる、ハーブの香油が落とされた温かいお湯は、まるで天国の泉のように見えた。
「――さあ、シエル。まずはその身体の汚れを綺麗に洗い流そう。私がやってあげるから、そこに座りなさい」
ティールは黒のジャケットを脱ぎ、白いシャツの袖をフリルごと肘の上までたくし上げ、そう命じた。
肌の露出の少ないティールの腕捲りという時点でかなりレアな光景だが、シエルがそんな事を知るはずもない。だが、戦場を駆け、大鎌を振るう手とは思えぬほどしなやかで美しい白い肌に、思わず目を奪われたのは事実だった。
「えっ………!? そんな、私、自分で――」
シエルが恐縮してスカイブルーの瞳を泳がせる。対して泥にまみれた自分の身体。こんなにも綺麗な人に洗ってもらうなど精神が擦り切れそうだった。
しかし、ティールは桶に湯を掬いながら少し不服そうな顔でこちらを見てきた。
「私の言葉に従いなさい。私は既に君の保護者も同然だ。ならば、身体の労わり方を教えるのも、保護者たる私の役目だ」
表向きは、有無を言わせぬ絶対の王の佇まい。
とは言ったものの、実はその脳内は、先ほどから動揺で荒れていた。
(……さて。自分でやると言ったものの、私は子供を入浴させた経験など一度もない。この細い身体、私が少しでも加減を誤れば、簡単に傷つけてしまうだろう……五十人の重装歩兵を無力化するより、今のこの状況の方が遥かに難易度が高いな)
至極真面目に分析し、静かに動揺を迎えつつ、ティールはどこまでも染み付いた冷静な表情を崩すことはなかった。
シエルのボロボロの布切れ同然であった服を脱がし、小さな椅子に腰掛けたシエルの背後にそっと跪くと、最高級の石鹸を泡立て、手のひらでシエルの淡い亜麻色の髪を優しく包み込んだ。
「熱くはないかい、シエル」
「はい……、とっても、あったかいです……」
お湯の温かさと、ティールの大きな手のひらが頭を撫でる心地よさに、シエルは緊張で強張っていた身体を、ふにゃりと緩ませた。
6.泥を洗い流す、新しい命の証明
ティールは、驚くほど繊細な手つきで、シエルの髪や身体に染み付いた地下牢の泥を洗い流していった。
泡を流すたびに、隠されていたシエルの本当の姿が露わになっていく。訓練や折檻で傷ついた小さな背中、細い腕。肋の見えるやせ細った身体。その生々しい過去の傷跡を見るたび、ティールの右目の奥には、静かで昏い、けれど確かな憤怒と――それを上回る深い慈愛の心が灯っていた。
(……よく耐えた。もう、お前を傷つける檻はどこにもない)
そんな心の声を流す水の音に隠しながら、ティールは優しく、シエルの背中を湯で流しきった。
「あの、えっと……ティール、さま。すごく、優しくて、気持ちいいです。私、なんだか、新しく生まれ変わったみたい……」
シエルが湯気の中で、生まれて初めて、本当に心の底からの柔らかな笑顔を浮かべた。
泥まみれだった亜麻色の髪は、ティールの手によって洗われ、まるで絹糸のような美しい輝きを取り戻している。雨上がりの青空そのもののスカイブルーの瞳が、湯気の中でキラキラと輝いていた。
「お前は元々、それほど美しい色をしていたのだな、シエル。とてもよく似合っているよ」
ティールは前髪の隙間から柔らかな笑みを浮かべ、大きめのバスタオルでシエルの小さな身体をふんわりと包み込んだ。
お風呂から上がり、ティールが用意してくれたのは仕立ての良い白いネグリジェ。結局髪まで丁寧に乾かしてもらい、簡単に切り揃えて貰った亜麻色の髪で鏡の前に立った少女は、そこに映る「綺麗で、愛されている自分」の姿を見て、今度は嬉しさで瞳を潤ませた。
「シエル。明日からは、この邸宅でお前の新しい日常が始まる……まずは、読み書きとマナーから始めるとしよう。お茶はその後で構わない」
ティールはシエルの小さな肩に手を置き、優しくそう告げた。
「はい……っ! ティール様! 私、世界で一番、ティール様が幸せになれるお茶を淹れられるようになります……っ!」
シエルは力強く宣言した。
こうして、彼女の類まれなるお茶の才能は開花し、ティールの最初の生徒としてあらゆることを教わったのだった。
7.そして、完璧な絆へ
ーーーーカツン……
夕暮れ時。いつもの美しい庭園のテラス席。
「ティール様、お茶のお代わりはいかがですか? 本日はアッサムに、少しだけハーブの香油を落としております。あの夜、ティール様が私を綺麗にしてくださった、大好きな思い出の香りです」
十六歳になった現在のシエルが、スカイブルーのリボンを揺らし、非の打ち所がない完璧な所作で白磁のカップに美しい琥珀色の液体を注いでいた。あの怯えていた小さな迷子は、今や裏社会の誰もが羨む、世界一気高く美しい完璧な侍従兼副官へと仕上がっていた。
随所に施されたスカイブルーの刺繍と、耳に飾られた青緑色の宝石やブローチは、ティールの趣味ももちろんあるがシエル自身、自然と選ぶ色になっていた。
ソファーに腰掛けるティールは、膝の上で大きな顎を乗せて甘える白銀の超大型犬シルヴァを撫でながら、フッと余裕に満ちた笑みを浮かべた。
「ふむ……素晴らしい、シエル。やはりお前の淹れる茶が、一番美味しいな」
「勿体なきお言葉です、ティール様!」
その横では、グレイが二人の完成された主従の絆の歴史を肌で感じながら、穏やかな顔で静かに微笑んでいた。
泥を洗い流し、温かい熱を与え、静かな愛で包み込んできたからこそ、今のこの完璧な日常がある。
世界を平伏させた3人と一匹の絆の根底には、あの湯気の中で紡がれた、どこまでも優しい、王者の慈愛が今も確かに息づいているのだった。




