外伝:青空の檻(上)
シエルが、ティールに拾われる過程を記した外伝です。
故郷の空を思う、ティールの愛を込めて。
1.無彩色の狂犬
これは、第一部の時間軸から約七年前――ティールがまだ二十歳、特級執行官として王都の裏社会にその名を轟かせ始めた頃の記憶である。
王都のとある地下深く。
薄暗い、湿気がまとわりつくようなその空間は、とある元老院の所属者が隠蔽していた暗殺者養成所だった。
そこには、戦争などで身寄りのなくなった子供や拉致してきた幼子を集め、薬物と狂気の訓練によって「名前のない道具」へと仕立て上げる、吐き気のするような血の檻だった。
「――グあ、ぁぁあああっ!?」
暗闇を割って、絶叫と肉の裂ける音が響く。
返り血が壁一面に広がる通路を、カツ、カツ、と容赦のないハイヒールの音が進んでいた。
若き日のティール・エルドラは、今よりもどこか尖った、触れればすべてを切り裂くような冷徹な覇気をその身から放っていた。仕立ての良い黒のジャケットを血で汚すこともなく、下段に構えた大鎌の刃で組織の幹部たちの命を淡々と処分していく。
「特級、執行、官……! なぜ元老院の所属である私たちが、貴様のような王国の犬に――」
「我々《ノクターン》は国直属の執行官組織であって、お前たち元老院が私の上司というわけではないのでね」
低い、まだ少し若さの残るアルト。
ティールはその薄い青緑色を細め、命乞いをする幹部の首を冷酷に大鎌で刈り取った。今回の任務は、元老院の特定派閥による「私兵育成」の摘発および完全抹殺。言葉に出せば随分と物騒な案件だが、ティールにとってはただの退屈な大掃除に過ぎなかった。
本来であれば、このような任務は執行官組織の所属である執行部門の仕事であるのだが、たまたまその執行部門の上官が他の任務で出払っており、致し方なくティールが単独でこの場に来たというわけだ。
最奥の部屋へ続く重厚な鉄扉を、ティールはハイヒールで無慈悲に蹴り破る。
そこは、異様な薬品の臭いと、獣の檻のような鉄格子が立ち並ぶ地下牢だった。生き残っていた数人の研究員が、恐怖に腰を抜かして這いつくばっている。
「ひ、ひぃっ......! ま、待ってくれ! 私は命令されて、この子供たちを『調教』していただけで――」
「騒がしい。耳障りだ」
ティールがすぅ、と細めた眼差しで一瞥し冷たく告げた、その時だった。
「グアァァァッ!!」
鉄格子の奥、一番小さな檻の闇から、人間のものとは思えない凄まじい殺気を孕んだ「獣のような咆哮」が響いた。
次の瞬間、引きちぎられた鎖をジャラリと鳴らし、一人の小さな影がティールへと飛びかかってきた。
それは、当時まだ九歳か十歳ほどの、ひどく痩せ細った小さな女の子だった。
ボロボロに引き裂かれた泥まみれの衣服を纏い、全身は訓練と折檻による傷で痛々しいほどに赤くなっていた。その淡い亜麻色の髪は乱雑に切られて長さも揃わず酷い有様だったが――その奥から覗く、雨上がりの青空のようなスカイブルーの瞳。
その青だけが異常なまでの狂気と、世界への憎悪でギラギラと血走っていた。
少女の手には、どこからか拾った錆びた暗器が握られており、迷いなくティールの喉元へと突き出される。
「くっ!手に負えん獣もようやく役に立つ時が来たようだな!おい、その女を処分しろ!」
背後で一人の研究員が叫ぶ。
だが、ティールは眉一つ動かさなかった。
「……」
表向きは、いつもの冷徹なポーカーフェイスのまま。しかし、その内面では、目の前に飛び込んできた脆弱な命に、思いのほか衝撃を受けていた。
(……骨と皮ばかり。こんな細い腕で、獣のように武器を手にしているとは。ここの施設は想像以上に腐りきっているらしい)
思考が巡る中、ティールの肉体は本能で完璧に動いた。
キィン、と硬質な音が響く。
ティールは大鎌の長柄をわずかに傾け、少女の決死の刺突を、傷一つ負わせずにミリ単位の精度で滑らかに受け流した。
「くっ!!うあぁぁああっ!!」
少女は体勢を崩しながらも、すぐに床を蹴り狂犬のように再びティールの足元へ噛みつこうと跳ねる。しかし、ティールはそのすべての荒々しい攻撃を、まるで美しいダンスでも踊るかのように優雅に、すべて無力化していった。
決して傷付けることはせず、ただ躱し続け、武器をぶつけ合い純粋な力のみで押し返す。もはや攻防戦ですらなかった。
やがて、体力の限界を迎えた少女は、ティールの大鎌に向かうが返り討ちにあってついに床に転がった。激しく息を荒くしながら床に膝をつくが、スカイブルーの瞳の奥の光だけは消えず、ティールに対する敵対心と恐怖心から、彼女を呪うように睨みつけている。
一部始終を目の前にして怯える研究員たちを冷徹な目で見限ると、ティールは静かに大鎌を青緑色の魔力光と共に虚空へと収めた。そのまま音もなく少女の前へと歩み寄り、その場にすっと姿勢を低くする。
「っ、……!」
武器を弾き飛ばされて、身一つになった少女が身構えた、その瞬間。
ティールの細く綺麗な、フリルの袖口から伸びた手のひらが、少女の泥だらけの亜麻色の髪へと、そっと置かれた。
触れれば壊れてしまいそうなガラス細工を扱うような、無自覚なほどに、もの凄く優しい手つき。
「ふむ……よく動ける子だ。これだけの地獄にいながら、その眼の輝きだけは、濁らずに残っていたのだな」
低い、包み込むような声音が、地下牢の冷たい空気に染み渡っていく。
少女は、生まれて初めて触れられた暴力を伴わない、温かい大人の手のひらの感触に、激しい拒絶と、それ以上の混乱を覚えて、完全に動きを止めた。
2.檻の破壊、最初の選択
ティールはゆっくりと立ち上がると、この地下室の太い鉄格子を見上げた。元老院の歪んだ欲望によって、この小さな少女を縛り付けていた、忌まわしい鉄の柵。
「そうだ。お前に名を与えよう────シエル」
ティールは、その場で即座に思いついた名前を口にした。
「お前のその瞳は、私がかつて失った故郷の、雨上がりの青空によく似ている」
「シ、エル……?」
少女が初めて、掠れた、小さな掠れ声を漏らした。
ギィンッ!!!
次の瞬間、ティールの大鎌が再び現れ、少女を閉じ込めていた頑強な鉄格子を、火花と共に全て叩き割った。飛び散る鉄屑。目の前の視界を遮る「檻」が、一瞬で消え去る。
ティールはフリルの袖を優雅に払い、呆然とするシエルへ向けて、細く綺麗な右手を真っ直ぐに差し伸べた。
「私はお前を暗殺者として買いに来たわけでも、新しい道具として拾いに来たわけでもない。私の名はティール。……私に従い、私のために茶を入れ、尽くす日々を選ぶか。それとも、この壊れた檻の中で、過去の灰と共にこのまま飢え死ぬか……自分で選びなさい」
裏社会の死神としての冷徹さと、かつてアッシュフォードの王女だった者が持つ、絶対的な気高さ。
その二つが調和したティールの姿は、わずか九歳程の幼いシエルのスカイブルーの瞳に、この世界で唯一の「主」として、鮮烈に焼き付いた。
シエルは、自分の泥だらけのやせ細った小さな手を、激しく震わせた。
こんな汚れた手で、その綺麗な手を握っていいのか。
だが、この人を失えば、自分は二度と青空を見ることはできない。本能的にそう理解した瞬間、迷いは消えた。
「……あな、たの……そば、に」
シエルは必死に手を伸ばし、ティールの温かい右手を、壊れものを掴むように強く、強く握りしめた。
「ふっ……良い子だ、シエル。生きるための最善策を選択できる賢い子供は嫌いではないよ。さあ、行こう。私のお茶会の準備は、そう簡単にできるものでは無いから、覚悟するように」
ティールは前髪の隙間から酷く美しい笑みを浮かべ、小さなシエルを優しく抱き上げた。
これが、後に王都の裏社会を震撼させ、同時に最も美しい絆で結ばれることになる、特級執行官ティール・エルドラと、その完璧な侍従であり副官シエルの、すべての始まりの夜だった。
3.無菌室のなかの迷子
王都の喧騒から離れた、静かな森の奥に佇むティール・エルドラの邸宅。
地下牢の血の臭いとは無縁の、磨き上げられた廊下と、初夏の爽やかな風が吹き抜ける美しい庭園。そのあまりの白さと眩しさに、連れてこられたシエルは、まるで自分が世界を汚す異物であるかのように怯えていた。
「――お前の部屋はここだ、シエル」
ティールが案内したのは、見たこともないほど大きいベッドと、白を基調とした家具が整えられた、日当たりの良いひと部屋だった。
しかし、シエルは部屋に入ることもできず、衣服の裾を握りしめたまま小さく震え、ドアのすぐ横の壁際に立ち尽くした。泥や汚れでくすんでいる淡い亜麻色の髪の隙間から覗くスカイブルーの瞳は、まるで出来上がったばかりのガラス細工のように脆く震え、ティールの動きを怯えたように注視している。
(……こんな綺麗な部屋に案内されるなんて…役に、役に立たなければ、またあの冷たい地下牢にきっと捨てられる…っ。この人に、尽くせと言われたけれど、私は文字だってろくに読めもしないのに……いったい何からすればいいの……? )
遂には緊張の糸が限界を迎えたのか、小さな身体をこれ以上ないほど丸めて膝に顔を埋め、震える少女。
その姿を前に、ティールは、直立不動のままフリルの袖口を揺らして考える仕草を見せた。
その顔は、どこまでも冷徹な特級執行官のままである。だが、その内面は、目の前の儚い命が放つ極限の怯えに、困惑し、僅かに思考をフリーズさせていた。
(…さて、困ったな。どうすればいいか…この子は恐怖しているのだろう……無理もない。私が一歩近づくだけで、この子は息を詰まらせてしまう。声をかけるべきか? だが、また無意味に威圧を与えてしまうだけだろう。参ったな……)
常に冷静で正確な判断を即座に下す特級執行官が、実に珍しく脳内でプチパニックを起こしていた。
しかし、そんな彼女が選んだ行動は、どこまでも静かで、優しさに満ちたものだった。
ティールはカツ、とハイヒールを一度だけ鳴らし、あえてシエルから二歩引いた位置に、ゆっくりと腰を落とした。彼女の綺麗な長い銀髪が、冷たい床に静かに広がる。
「……無理に部屋に入る必要はないよ、シエル。廊下が落ち着くなら、気が済むまでそこにいなさい」
ティールは低いトーンを極限まで和らげた声で短く告げた。そして、それ以上シエルを詮索することなく、ただ静かに、その隣で背筋を伸ばして座り続けた。
三十分、一時間……
時計の針が静かに進む中、ティールは微動だにせず、廊下の壁を背にシエルの横で静寂を保ち続けた。
じっと動かないティールの存在に、シエルは最初こそ「痺れを切らしていつ怒号が飛ぶのか」と身構えていたが、彼女から放たれる覇気が、自分を傷つけるためのものではなく、むしろ周囲の雑音から自分を守る強固な盾のようであることに、気づき始めていた。
ようやく呼吸が落ち着き、手足の震えが収まった頃、シエルはおずおずと、膝の隙間からスカイブルーの瞳を覗かせる。
目の前に座る銀髪の麗人は、まるで湖の底のように静かな瞳を閉じていたようで、シエルの視線に気づくと、その長いまつ毛がふわりと持ち上がる。
「……少し待っていなさい」
そう言ってティールはフリルの袖を揺らしてどこかへ去っていく。
足音が離れていく音を聴きながら、シエルはこの大きくはないが決して小さいわけではない美しい屋敷に、彼女以外他に誰もいないことに気づいた。特級執行官といえば国でもかなり上位の権限を持つ裕福な者のはず。だが、彼女の召使い達らしき姿は見えず、他の人の気配すらない。
だが窓の外から聞こえてくる虫の声や流れる水の音、心地よい静寂は、乱れていたシエルの心を不思議なくらいに落ち着けてくれた。
しばらくしてティールが戻ってくる。
するとその手にはシルバーのトレイに乗せた一杯の温かい紅茶と、甘い焼き菓子があった。
「私の前で食べるのが恐ろしいなら、私が背を向けよう……ただ、それを口にして、少し温まりなさい。お前は少し、冷えすぎている」
ティールはトレイを床に置いて優雅に立ち上がると、本当にシエルに背を向け、少し離れた場所から窓の外の庭園を眺め始めた。
一人残されたシエルは、目の前の白磁のカップから立ち上る、芳醇で優しいハーブの香りに、ごくりと唾を呑んだ。
震える細い両手で、初めて触れる綺麗な白磁のカップを持ち上げる。じんわりと、手のひらから伝わってくる、かつて経験したことのない優しい熱。
「ぁ……」
一口、息をふきかけて冷ましてからその琥珀色の液体をすすると、花の香りと、ほんのりとした甘みが身体の芯まで染み渡っていった。
それは、痛みと冷たさしか知らなかった少女にとって、生まれて初めて知る「世界の優しさ」そのものだった。
シエルが泣きそうな顔でカップを空にし、ソーサーに置く音が響く。
ティールはそれを背中で聞きながら、心の中で安堵する。
(……飲んでくれたか。よかった。お菓子も食べてくれたようだ。やはり、彼の持論である「子供は甘いものが好きらしい」は案外正しいのかもしれないな……)
ふとティールの脳内に、一瞬姿を見せて消えた男がいたが、これはまた別の記憶の話である。
ふぅ、と短く息を吐いたティールはゆっくりと振り返り、空になったシルバーのトレイを見やってから、穏やかに笑みを浮かべて見せる。
「美味しかったかい、シエル」
「は、い……でも、私は、お茶のいれかたも、何も……できません。役に立てなくて、ごめんなさい……っ」
シエルはそう言うと、今後への不安に再び声を詰まらせた。




