無言の戴冠(下)
4.夜会の覇者
「――あり得ない。却下だ、シエル。そのような布切れを纏うくらいなら、私は全裸で戦場に赴いた方がマシだよ」
舞踏会の前夜。邸宅の衣装部屋には、ティール・エルドラのいつもよりも一段と低い、明確な拒絶の声が響いていた。
「えーー!!絶対お似合いなのに……というよりティール様。戦場ではなく、今回の行先は舞踏会なのですが……」
シエルが誇らしげに掲げていたのは、王都の最高級絹で仕立てられた、目の覚めるような黒い美しい夜会用ドレスだった。だが、ティールは前髪の隙間から、まるで不発弾でも見るかのような冷徹な右目でそれを睨みつけている。
(……ドレスだなんて。 あのような足捌きの悪い衣服、邪魔にしかならない。それに私はこの静寂を守るために致し方なく夜会に行くのであって、決して楽しむために行くのではない)
脳内でドレスに対する冷徹なリスク分析と、舞踏会には参加したくないけれど行かなければならない状況を自己に言い聞かせるまでを完遂したティールは、腕を組み、完璧なポーカーフェイスのまま言い放った。
「私の正装は、私が決める……グレイ、私が用意させた『あれ』を持ってきなさい」
「はっ。こちらに」
部屋の隅で控えていたグレイが、うやうやしく一つの衣装ケースを差し出した。
中に入っていたのは、ドレスとは対極にある、洗練を極めた最高の一着だった。
「本当にこれ着てくださらないんですか…?」
「私はそういうスカート状の衣服は好まないと知っているだろう」
「存じ上げてますけど〜……」
5.月光の紳士、令嬢たちの吐息
翌夜。
王都の中心にそびえる、クリスタルのシャンデリアが眩いばかりに輝く大舞踏会会場。
元老院を始め貴族社会に激震が走ってまもなく行われるこの夜会には、複数の意味が存在する。国主催の大規模な夜会は、ジルニア王族の変わらぬ権威を、そして公爵家一族が没落したことで国が揺らぐようなことはないという安定の誇示のためだ。
きらびやかなドレスを纏った令嬢たちと、一世風靡を狙う貴族の若者たちが、オルセン公爵の失脚後に誰が新しい覇権を握るのかと、腹の探り合いの会話を交わしていた。
「――特級執行官、ティール・エルドラ様、ご入場でございます」
給仕の朗々とした声が響き、会場の重厚な扉が左右に開かれた。
誰もが、裏社会の覇者がどのような煌びやかなドレスで現れるのかと、好奇の視線を向けた。――だが、次の瞬間、会場全体の時が完全に凍りついた。
ーーーーカツ、カツ、カツ……
会場の静寂を割って響く、気高きハイヒールの音。
現れたティールは、ドレスなど身に纏っていなかった。
仕立ての良い、極上の漆黒のタキシードジャケット。タイトでありながら流麗な線を崩さない、ハイウエストの黒のスラックスの裾は黒いフリルで華やかに飾られている。シャツの襟元には、彼女の瞳と同じ、深い青緑のシルクのフリルタイが巻かれ、そして、歩みを重ねるたびに、長い外套の裾から鮮烈な青緑の裏地が、夜風を孕むように美しく翻っていた。
あえて、いつものパンツスタイルを夜会仕様に着飾った正装によって、彼女の持つ長身のスタイルと、気品、そしてどこか男性的な格好良さが、極限まで引き出されていた。
宝石で軽く編み込まれた長い銀糸のような髪が、彼女が歩く度にシャンデリアの輝きを反射してキラキラと光の粒子すら纏っているように見えた。
「な……、なんという気高さだ……」
「ドレスを着たどの令嬢よりも、美しい……いや、この会場のどの人よりも素敵……っ」
あまりのオーラに、周囲の貴族たちが自然とモーセの海のように道をあけていく。特に、壁際にいた有力貴族の令嬢たちは、ティールのその完璧な佇まいに、頬を真っ赤に染めて一斉にため息を漏らしていた。
ティールの右側には、黒いシンプルでいてシフォンのような愛らしいドレスを隙なく着こなしたシエルが、主の品格を守る守護者として控えている。
そして左側には、同じく黒の礼服を美しく着こなし、洗練された騎士の笑みを浮かべたグレイが、ティールの一歩後ろを優雅に歩いていた。
「ティール様。貴族たちの視線が、完全にあなた様に釘付けです。……これは明日から、王都の仕立て屋に『執行官スタイル』のパンツスタイルの正装の注文が殺到するのでは?」
グレイがティールの脇から小声で囁くと、彼女はフッと余裕に満ちた笑みを浮かべた。
「まさかそんな愚かな真似をする者はいません!このスタイルはティール様だから成立するのであって、他の令嬢や令息に真似など到底できません。アンバランスで不格好になるオチが私には見えています」
「ふっ……彼らも、私がドレスを着て不機嫌になっているよりは、この姿の方がお茶を楽しめると理解しているだろう」
傍にいた侍従のトレイから、ティールの黒いレースの手袋をはめたしなやかな指がシャンパングラスを受け取る。
今宵の主役。そう言っても過言ではないティールの一挙手一投足に、全員の視線が集まったのだった。
6.唯一のワルツ
国王の挨拶の後、しばらくののちに舞踏会の音楽が、緩やかなワルツへと切り替わる。
本来であれば、男性貴族が女性を誘う場。しかし、この会場において、誰もティール・エルドラという「王者」に声をかける勇気のある男などいなかった。
上層の貴族社会は、彼女が「亡国アッシュフォードの王女」であることを知っている。彼女の望みもあるが、自らの生存のためにも「無言」を貫き、遠巻きに敬意を捧げることしかできないのだ。
ティールはグラスを傾け、退屈そうにその様子を眺めていた。
(……やはり、この手の夜会は退屈だな。早く帰ってシルヴァを構いたい――)
そんな主のわずかな空気の微震を、シエルは決して見逃さなかった。
シエルはスカイブルーの瞳に深い忠誠と、少しだけの悪戯っぽさを浮かべ、ティールの前へと進み出た。そして、完璧な淑女の所作で、すっとドレスの裾を持ち上げて一礼した。
「――特級執行官ティール様。もしよろしければ、この退屈な夜会の締めくくりに、私めと一曲、踊っていただけませんか?」
若い侍従が、主人をダンスに誘うという本来であればありえない光景に、周囲の貴族たちがハッと息を呑んで見守る。
ティールは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせたが、すぐにフッと蕩けるような笑みを浮かべた。
「お前の誘いなら、断る理由がないね、シエル」
ティールは細く綺麗な右手を差し出し、シエルの小さな手を優しく包み込んだ。
そして、パンツスタイルの完璧な「紳士」として、シエルをエスコートしながらダンスフロアの中央へと進み出る。
女性二人のダンス、という本来であれば常識のない行動に野次でも飛びそうな光景だが、相手はあのティール・エルドラとその侍従である。その凛と伸びた背筋と華やかなオーラに口を出せるものなどいるわけがなかった。
ーーーーカッ……
音楽が響き、二人のステップが始まった。
ティールの流れるような足捌き、フリルの揺らめき、そして翻る青緑の外套。シエルの黒いドレスが、主の動きに合わせて美しく夜空に円を描く。
その姿は、男性よりも遥かに紳士的で、女性の誰よりも気高く華やかな、完璧な主従の、二人のためだけのワルツだった。
フロアの端では、先程まで「ティール様の騎士様ですね!?」「お名前をお伺いしても?」とひっきりなしに女性陣に囲まれて身動きを取れなくなっていたグレイが、ようやく解放された状況に窮屈な衣服を少しだけ緩めると、その美しすぎる二人のステップを、誇らしげに見つめていた。
「ふむ、素晴らしいね、シエル。お前のステップは風のように軽い」
ティールが低いアルトの声で耳元で囁くと、シエルは胸のスカイブルーのリボンを揺らし、最高の笑顔で応えた。
「はい、ティール様! あなた様が守ってくださったこの日々に、一歩たりとも、遅れるつもりはございませんもの!」
己のスタイルを貫き通したティール・エルドラ。
ジルニア王都の社交界は、その無言の覇気と、圧倒的な美しさに、今夜も完全に平伏するしかなかった。




