無言の戴冠(上)
1.凍りついた王都、無血の包囲網
元老院最高幹部、オルセン公爵の暗殺。
白昼堂々、特級執行官ティール・エルドラの手によって下されたその事実は、数時間も経たぬうちに王都の権力者たちの間を激震となって駆け巡った。
当然、国は動いた。国家憲兵の精鋭数百名が、ティールの邸宅を包囲すべく武装行軍を開始したのだ。国家最高幹部の殺害は、いかに特級執行官といえど明確な国家反逆罪。誰もが、裏社会の死神と国家の全面戦争が始まると確信していた。
しかし、憲兵隊がティールの邸宅の敷地に足を踏み入れるより先に、どういう訳か王都の「血流」がピタリと止まった。
「な……、どういうことだ!? 中央市場の食料搬入がすべて拒否されただと!?」
「スラムからの水路の管理権が何者かに掌握されました! 復旧の目処は立ちません!」
「各商会からの税収、および流通ルートが完全に凍結! このままでは明日、王都の全経済が崩壊します!」
憲兵本部に次々と飛び込んでくる絶望的な凶報。
それだけではない。ティール・エルドラの息がかかった闇の組織、市場の商人、果ては下水道を這う浮浪者に至るまでが、無言のまま王都の全機能を人質に取ったのだ。
────ティール・エルドラを罪人として裁こうとした瞬間、この国そのものが飢えと内乱で滅びる。
まざまざと見せつけられたのは、執行官組織の最高権力者、特級執行官としての彼女のあまりにも大きく強い影響力だった。
国家の首脳陣が会議室で青ざめてペンを落とし、椅子から立ち上がる。
その時、元老院の全議員の元へ、シエルの手によって「一冊の帳簿の写し」が届けられた。
そこには、オルセンだけでなく、現元老院のほぼ半数以上が関わっていた汚職、そして十七年前のアッシュフォード王国を不当に滅ぼした国家背信の証拠が、克明に記されていた。
帳簿の最後に添えられていたのは、ティールの筆跡による、冷徹で優雅な一筆だけだった。
『私のお茶会の時間を、これ以上騒がしくしないでほしい。……次はないよ』
最早、脅迫ですらなかった。
それは、王者が羽虫に下す、ただの「命令」だ。
議員たちは自分たちの命取りになる汚点を握られ、さらに王都の息の根を止められたことで、恐怖と共に沈黙するしかなかった。
結果、国家憲兵は即座に撤退。元老院は「オルセン公爵は、突如発狂して近衛を傷つけ、特級執行官ティールによって『正当に処刑』された」と、自らの手で事実を隠蔽・処理せざるを得なくなったのだった。
2.気高き無言、貴族社会の選択
それから数日後。
オルセンの執務室でティールが放ったあの名、『ティール・エルドラ・フォン・アッシュフォード』の噂は、防ぎようもなく王都の貴族社会の裏側へと伝播していた。
あの冷酷無比な死神が、十七年前に滅びたアッシュフォード王国の正統なる王女だった。
その事実に、大貴族たちは夜も眠れぬほどの恐怖に震えた。かつてあの国を裏切り、見捨てた者たちにとって、彼女の存在はいつ自分たちの首を撥ねにくるか分からない本物の「亡霊」だったからだ。
だが、彼らが何より驚愕したのは、ティールに「復国の意思が、一ミリも存在しない」という冷酷な事実だった。
彼女は王座など求めていない。過去の怨恨で国を引っくり返す気もない。
彼女が求めているのは、ただ、自分が血を流して勝ち取った「特級執行官」としての無敵の地位、そしてシエルとグレイ、シルヴァと共に過ごす「静かで完璧なお茶会の日常」だけ。
「……アッシュフォードなど、十七年前に灰になった国だ。今さらそんな国を、私がわざわざ興す価値などない」
社交界の裏で流れたティールのその言葉の真意を、貴族たちは即座に、そして必死に汲み取った。
『彼女を刺激してはならない。彼女が「ただの執行官ティール」として、静かに日々を過ごしている限り、我が身は安全だ。だが、もし誰かが余計な真似をして彼女の過去を暴き、その平穏を壊せば、今度こそ、この国ごと全てが刈り取られる』
利害と合理性、そして底知れぬ恐怖。
王都のすべての権力者たちは、誰から命令されるでもなく、一つの「鉄の約束」を共有した。
――すなわち、彼女の前では、アッシュフォードの名を、過去の因縁を、永久に「無言」で通すこと。
公式の場であっても、彼女が歩けば誰もが「特級執行官ティール・エルドラ」として、最大級の敬意をもって跪く。彼女がかつて滅びた国の王女であることは今や上位貴族の誰もが知っているが、誰もそれを口にしない。
触れればすべてが吹き飛ぶ、美しくも冷たい「無言の檻」が、王都の頂点に完成したのだった。
3.世界を平伏させた玉座
初夏の風が吹く、いつもの邸宅の庭園。
白のレースが敷かれたテーブルの上には、シエルが細心の注意を払って淹れた、澄んだ琥珀色のハーブティーが佇んでいる。
ティールはソファーに深く腰掛け、フリルの袖口を揺らして白磁のカップを傾けた。
前髪の隙間から覗く冷徹な右目は、数日前の国家の激震など、まるで最初からなかったかのように穏やかだった。
彼女の膝の上には、白銀の超大型犬シルヴァが、大きな顎を「すんっ……」と乗せて、上目遣いで「撫でて」と訴えかけている。
ティールはもの凄く優しい手つきでシルヴァの耳の後ろを撫で、心底幸せそうに言葉をこぼす。
「……ふっ、良い子だ、シルヴァ。やはり、この時間を守るためのあの労働には価値があった」
「はい、ティール様。元老院の老骨どもも、ようやくマナーというものを学んだようです。これでもう、ティール様の世界を煩わせる羽虫は一匹もおりません」
シエルがスカイブルーのリボンを揺らし、健気な笑顔で新しい焼き菓子を皿に並べる。
そして、ティールの左側。グレイが、洗練された騎士の所作で、ティールの空いたグラスに静かに水を注いでいた。彼の瞳からは、焦燥も、裏切り者への憎悪もすっかり消え去っていた。
「ティール様。貴族社会の奴ら、今やあなた様が社交界へ出向くだけで、まるで神の行幸を迎えるかのように静まり返っておりますよ」
グレイが少しだけ悪戯っぽい苦笑いを浮かべて告げると、ティールはフッと大人の余裕に満ちた笑みを返した。
「ふっ……騒々しいよりはマシさ、グレイ。彼らも、自分の命と引き換えにしてまで、私のお茶を邪魔したくはないのだろう。……お前も、そんなところに突っ立っていないで座りなさい。シエルの淹れたこの茶は、冷めると勿体ないからね」
「……御意に、ティール様」
グレイは嬉しそうに、そのシエルにより培われた完璧な作法を崩さずにソファーへと腰掛けた。
国は彼女の「無言」の覇気に平伏した。
過去の滅びを乗り越え、最強の3人が勝ち取った、至高の平穏。
恐喝し、国を黙らせてまで守り抜いたこの小さなテーブルの平穏こそが、ティール・エルドラ・フォン・アッシュフォードが渇望し、死守すべき価値のある時間だった。




