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嵐の前の紅茶と灰の記憶(下)

4.傲慢なる蜘蛛の叫び


重厚な扉が轟音と共に蹴り開けられた執務室の奥。豪華な椅子から立ち上がったオルセン公爵は、老骨に似合わぬ鋭い金切り声を上げた。

入ってきたのは、ティール・エルドラ。そして、隙なく控えるシエルと、細身の大剣を背負ったグレイ。


「特級執行官ティール・エルドラ……! 貴様、元老院の最高幹部たる私の執務室に、何の手続きもなく不法に押し入るとは、いかに執行官といえど厳罰に処すぞ! 誰か!今すぐその不届きものを追い出さぬか!」


オルセンは机を激しく叩き、卓上の呼び鈴を鳴らそうと手を伸ばした。

しかし、その手は届かなかった。


ーーーーカツン……


ティールが微かにハイヒールを鳴らした瞬間、彼女の背後から影のように跳んだシエルの投擲ナイフが、オルセンの手元を正確にすり抜け、呼び鈴の装置を粉々に粉砕したのだ。


「ひぃっ……!」


「無駄だよ、オルセン公爵」


ティールは冷酷に告げた。光を反射する銀糸を揺らし、ゆっくりとオルセンのデスクの前へと歩み寄る。外套の裾から覗く青緑色が、まるで死神の誘いのように不穏に揺らめいた。


「貴方の手足である『鉄の蜘蛛(アイアン・スパイダー)』なら、昨夜、北西のスラムで一匹残らず叩き潰し、外の警護がこの私に刃を向けるとでも?……これ以上、誰が貴方の悲鳴を聞きつけに来るというのかね?」


「な、何だと……!? やつらが、全滅……!?」


オルセンの顔から、一気に血の気が引いていく。

元老院の闇の象徴であり、最強を誇った暗殺部隊が、たった一晩で、この女執行官の手によって根絶やしにされたという事実。老人は初めて、目の前に佇む銀髪の麗人が、王都の誰もが恐れる本物の『死神』であることを肌で理解し、ガタガタと膝を震わせ始めた。


「き、貴様……私を消して、タダで済むと思っているのか! 私を殺せば、元老院全体が黙っていない……国家反逆罪に値するぞ!そもそも、私になんの罪があるというのかね!? 」




5.亡霊の制裁


「国家反逆、か。……ふっ、実におかしな言葉だ」


ティールは目を細め、地獄の底から響くような低い嘲笑の笑みを浮かべた。


「十七年前、アッシュフォード王国を裏切り、連合軍を城内に引き入れ、王族から騎士団の末端に至るまでを惨殺した。……真の国家反逆者は、オルセン、お前の方ではないか?」


「な――っ、なぜ、それを貴様が――!?」


オルセンの目が、驚愕に見開かれた。

十七年前の事件は、オルセンを始めとする貴族達によって完全に歴史から抹消され、今や生き残りの裏切り者たちの間でのみ秘匿されている最重要機密のはずだった。

ティールは、グレイが命がけで奪い取ったあの古い帳簿を、オルセンの机の上にドサリと放り投げる。


「お前がヴァルベルク商会に隠させていた、血塗られた金の記録だ。……これで言い訳は通じないよ」


「あ、ああ……っ」


帳簿を見たオルセンは、完全に逃げ場を失い、腰を抜かすように椅子へと崩れ落ちた。

老人は必死に視線を彷徨わせ、ティールの後ろに立つ護衛の男の顔を見た。衣服を美しく整え、どこか無骨な雰囲気をもちながらも小綺麗な格好の護衛騎士――その瞳の奥に宿る、燃え盛るような執念と怒りに、オルセンはハッと息を呑んだ。


「お、お前は……まさか『灰の亡霊』か!? そうか、そういう事か!貴様ら、アッシュフォードの騎士の残党が、私の命を狙いに――!」


怯え、激昂し、醜く喚き散らす元老院最高幹部。

その哀れな蜘蛛を見下ろしながら、ティール・エルドラは、ゆっくりと自身の長い銀髪の前髪を、細く綺麗な指先でかき上げた。

あの日、灰の夜から十七年間、裏社会を統べる死神の仮面として隠し続けてきた、その本当の『素顔』を。

完璧なポーカーフェイスの裏に眠っていた、すべての生物を跪かせる圧倒的な王族の覇気と、冷徹極まる威厳が、執務室全体の空気を飲み込むように支配する。


ティールは前髪を払い、その隠された瞳にかの魔眼と呼ばれた『神の眼』の魔力を宿して見せた。


足元から巻き起こる魔力風。銀の髪と衣服が靡き、青緑色に発光するアッシュフォード王国の紋章がその右目に浮かぶ。


このように本気でこの力を使ったのは、いつの事だったか。


『神の瞳』の周囲に浮かぶ黄金と青緑の魔法陣が歯車のように、キチキチと音を立てながら、オルセンの瞳を真っ直ぐに射抜く。


ティールは低いアルトの声の響きの中にこれまでのすべてを込めて、その名を冷酷に突きつけた。


「――騎士の残党……?勘違いするな、オルセン」


一歩、前へ。

カツン、とハイヒールが最高の品格を奏でる。


「私はエルドラ……ティール・エルドラ・フォン・アッシュフォード。お前たちが壊した国の亡霊だ」





6.蜘蛛の終焉


「ア、アッシュフォード……エルドラ王女……っ!? まさか、生き残って、いた、だと……っ!?ありえぬ……!あの数の兵士を相手にたかが十歳の子供が太刀打ちできるはずがない!!」


オルセン公爵は、文字通りの『亡霊』、あるいは力這い上がってきた本物の死神を見るかのような、極限の恐怖に顔を歪ませた。


あの夜にすべてを奪い、皆殺しにし、灰にしたはずの国の主たる王女が、今、王都の裏社会の頂点である『特級執行官』として、自分を裁くために目の前に君臨している。

確かに、あの日送った刺客から「確かに始末した」という情報は得られなかったが、あの凄まじい業火と反逆の刃の中でたった十歳の少女が生き延びたとは、常識的に考えても到底思えなかったのだ。


「ひ、ひぃぃぃ! ゆ、許してくれ! ……か、 金ならいくらでも出す! 元老院の議席も、すべて望むままに――」


「お前の汚い金も権力も、私の平穏には1ミリも必要ない」


ティールは背後の巨大な大鎌を音もなく手に取ると、冷酷にその刃をオルセンの首元へと突き立てた。

『神の瞳』の魔力を宿した右目が、その輝きを増して強い光を放つ。


「……私の愛する静かな日常を、シエルの幸せを、グレイがようやく手に入れた平穏を、そしてシルヴァの眠りを邪魔しようとした。その罪の対価、貴様の命で支払ってもらおう、オルセン」


「ぎゃああああああああっ!!!」


漆黒の長柄が、金の装飾を煌めかせながら、流麗な孤を描いて一閃した。


元老院の最高幹部として、王都の頂点から世界を欺き続けてきた老蜘蛛の命は、アッシュフォードの正統なる血脈の手によって、白昼堂々、完璧な美しさをもって綺麗に刈り取られた。


ドサリ、と崩れ落ちる音と共に、十七年間のすべての因念に、完全なる終止符が打たれた。


「……お見事でした、ティール様」


グレイは衣服を整えた胸元に手を当て、その顔にかつてないほど晴れやかな、そして涙の混じった美しい微笑みを浮かべて深く一礼した。長い、果てなき放浪。そのすべての呪縛から、彼は今、本当の意味で救われたのだ。


「ティール様、 服に返り血がついていませんか?」


シエルがいつもの健気な子犬のような顔に戻り、アタフタとティールの周りを動き回る。


「構わないよ、シエル」


ティールは大鎌の血を払い背後へと収め、前髪を指で払い元の位置へと戻すと、ふぅ、と浅く息を吐いた。


「それより、早く帰ろう。……こんな汚い場所に長居してはいけない。……我が家の庭園で、シルヴァが私たちの帰りを待っているからね」


「「はい、ティール様!」」


二人の忠臣を従え、ティールは完璧な姿勢のまま、外套の青緑を美しく翻して、混乱状態の元老院議事堂を後にした。



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