二
領境には苔むした石の道標があるだけで、番人はいなかった。アウストローリエン領に入ったが、人里はまだ見えない。早めにエフェミナ様の教会を探すのと、マギソテラリス領でやり損ねた革防具の調整をしてもらわなくちゃならない。
おれは公用街道を下りながら、頭の中で本を開いた。
エフェミナ様の〝恩恵〟は安全な出産で、農作物の病虫害を防ぐまじないを授ける。かなり強力な女神だ。
そう、女神。ほとんどすべての神に性別はないが、例外のうちの一柱がこのエフェミナ様だった。自身の性を明確に示している。それになんの意味があるのか不明だが、とにかく女神だった。
強力、というのは安全な出産を保証する〝恩恵〟と、病虫害にやられない農業を約束するまじないの組み合わせにより、人口が順調に増加し、信仰の心が大量に集まる仕組みができあがっていることに由来していた。
エフェミナ様はたくさん食べる。そして、健康的に肥え、多くの乳房をもつ姿で描かれることが多い。
人里が見えてきた。また石の道標があり、村の名前が書いてあるらしいが、かすれて読めなかった。地元の人は読む必要なんかないんだからこれで間に合うんだろう。
ここの建築は木がほとんどで、マギソテラリス領と比べると騒乱時代を想像させる様子はまったくなかった。畑の緑を風がわたっていく。所々に立っている案山子はまじないをかけられており、風とは無関係に震えていた。あれが虫や病気を防ぐんだろう。
村人はたくさんいて賑わっていたが、すれ違ったときに手を振ったり、挨拶したりしても反応はほとんどなく、こっちには無関心だった。よそ者が入ってきたのにだれも声をかけてこない。そういう土地柄なんだ。公用街道からそれないかぎり無視し、面倒事は避ける。それも生き方だ。
村を越え、教会のありそうな大きな街に入った頃、日は完全に落ちていた。確かめたが、もう閉門していた。
街は教会を中心に東西南北の大通りが走っており、宿などは南通りに固まっていた。その一軒に泊まれたが、足下を見られて結構多めに要求された。その分の湯を遠慮なくたっぷり注文し、体と服をきれいにした。
その夜は主人に紹介してもらった革細工の店に防具を預け、昨夜の残りの麦饅頭と干し肉で腹を満たした。寝台に乾いた毛布。それだけで十分だった。
翌日、道の日向はすっかり乾いていた。街は通過した村以上の賑わいで、人と肩が触れあうのはしょっちゅうだった。
おれは人混みを抜けて革細工の店に立ち寄り、体に合わせてさらに微調整してもらった。引き渡しはあさってになるという。くれぐれもよろしくと頼み、教会に向かった。
街のほかの建物とおなじく、土台以外木だけで作られた教会は開門しており、用件を告げるとこころよく通してくれ、祈りを捧げる講堂に椅子を出してくれた。
「……そのご要望には添えません。我らは試合は行いません。武術の心得のある神官もおりませんし」 神官はおれの話をよく聞いたうえで断った。
「では、警護などはどのように行ってらっしゃるのですか」 力を担当する者がいないという点に引っかかった。なんらかの強制力が必要になったらどうするんだろう。
「特に専門職はおいてません。皆が交代で火の番を務めます」 警備を〝火の番〟と言った。
「昔からそうなのですか」
「はい」
「他領から圧力をかけられたりは? もしもの時の備えはいないのですか」
神官は困った顔でおれを見た。どう答えたらいいか言葉を探している。おれがおれ自身を無信仰だと言うときのように、これを言ったら後の説明が面倒になりそうだと考えてる表情だった。
「不要です。奪いたければ奪わせておけばいい。我らは再生産を恐れません」
こんどはおれが戸惑う顔をする番だった。神官はさらに説明してくれた。
「すべての神が信仰の心を食べるので、殺人は例外なく禁忌です。山賊のようなならず者連中や、自分の心を抑えきれない者が怒りや恨みにまかせて、という個人的かつ衝動的な事件はあり得ますが、集団として計画的に相手を皆殺しにしてやろうなどと考える者はもういません。また、神はお互いに干渉しない盟約を結んでいるが故に、信者本人の意志でなく無理やり改宗させるのは不可能です……」 神官はおれを見、ついてきてると悟ると続けた。「……だから我らは奪われてもまた作ります。それはエフェミナ様がいらっしゃれば苦ではありません。闘いのために鍛錬する時間など無駄です。そんな暇があったら勉強か労働すればいい。そのほうが豊かになれます」
「奪われる一方なのですか。それでいいんですか」
「基本原則はそうです。ま、我らとてまったくの無策ではありません。領主様は他領との外交によって安全保障を実現していますし、商人たちは情報収集に怠りありません」
「そうですか……、繰り返しになりますが、試合は行っていただけないんですね」
神官はうなずいた。それから思いついたように言葉を足した。
「ルシエスさん、最強の神を探索していらっしゃるとのことですが、それはエフェミナ様だとは考えられませんか。あらゆる外圧を硬くはね返すだけが力ではないと思います。我らの神は柔らかい木のごとく嵐を受け流し、仮に折られたとしてもまた育って種をつけます。これこそ最強でしょう」
おれは首を振った。
「いいえ、おれの……、失礼、わたしのいう強さとは精神と肉体を統合した強靱さで、その程度は闘いによってわかるものなのです。闘わずして強度は測れません」
「ならば、闘わない我らの神はそもそも対象外ですね」
「ええ。でも、興味深い考え方です。まったく無視して通り過ぎるのも惜しく思います」
「なら納得するまで滞在されるとよろしい。教会に部屋を用意できます。街の宿に比べればお構いできませんが」
「ありがとうございます。お言葉に甘えますが、なにか下働きくらいさせてください」
神官は微笑んだ。
「もちろん。ここではだれもがなにか生産的な仕事に携わっていただきます」




