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第3話『高校生だけど、男が絵に入っていった件』


普段、彼が必ず立ち止まる場所があった。

廊下の片隅、小さなベンチの置かれた風景画の前。

鮮やかな色彩で描かれた丘と空。それは彼にとって、日常の巡回における「憩い」のような絵だった。


しかし、今。


男は再び足を止め、ゆっくりと顔を上げた。

「……これは」


直も思わず目を凝らす。

暗闇の中で浮かび上がる風景画は――明らかに、以前とは違っていた。


穏やかな丘の木々は黒いインクを流し込まれたように輪郭を崩し、枝葉はねじれ、歪んだ影を空へ伸ばしている。

本来は澄んだ青で満たされていた空は、濁った灰と不吉な赤に塗り潰され、まるで世界が病んでいくかのようだった。


悪夢の風景。


「……違う。この色ではなかった。この形でもない」

男の声には確信があった。まるで絵そのものが自ら姿を変え、異様なものへと堕ちているかのように。


直が息を呑む間もなく、男は迷いなくその絵へと歩み寄った。

「は!? おい! 待てって!」

直は思わず腕を掴もうと伸ばす。だが、触れたはずの男の身体は指先をすり抜け、空気に溶けた。

「……嘘だろ」


男は風景画の前に立ち止まった。その瞳は恐怖ではなく、どこか懐かしむような光を湛えている。

「私は、いつも……この絵を見ていた。この景色だけが、私にとって唯一の……」


言葉は途中で途切れた。

震える指先が、そっと絵の表面へと伸びる。


――ズズズ……


触れた瞬間、異様な音が静寂を裂いた。

絵の具の膜が波打つように揺れ、木々は生き物のようにざわめき、男を迎え入れようと蠢く。


次の瞬間、男の衣が絵の具の波紋の中に溶け込み、みるみるうちにその姿が絵の中に消えていく。

そして、男の姿は完全に絵の中に溶けて消えた。

直は、呆然と立ち尽くした。

絵は、元の歪んだ風景画に戻っている。だがその表面は、まるで男が通った痕跡を残すかのように、淡く波打って見えた。


「……は? マジかよ……」


直は、ゆっくりと絵に手を伸ばした。触れれば、ただ冷たい絵の具の感触。しかし確かに、つい先ほど男はその奥へと吸い込まれたのだ。

絵の前に立ち尽くしたまま、直は表面に映る自分の顔を見た。恐怖と、そして抗えない好奇心の入り混じった表情。

――もしかして、この美術館は本当に絵の中と繋がっているのか?あいつらは...友人たちは……今も、どこかの絵の中に囚われているのか?


直は震える手で、その歪んだ風景画にそっと触れた。


その瞬間だった。


ドクン、ドクン――。

絵の奥から、確かに心臓の鼓動のような音が響いた。生々しく、絵の具の層が呼吸しているように。

そして、絵の表面が再び大きく波打ち、絵の具の渦の中から、オレンジ色の光がせり上がってきた。


――彼だ。


今度は逆に、絵の渦からゆっくりとその姿が押し出されてくる。指先、腕、そして顔が、絵の具の波紋を突き破り現れる様は、誕生の儀式のようであり、同時に悪夢じみていた。



やがて彼は、何のためらいもなく額縁を跨ぎ、美術館の床へと降り立つ。まるでほんの隣の部屋から戻ってきたかのように、涼しい顔をして。



「……っ!? 戻ってきたのか!?」


直は間抜けな声をあげ、思わず後ずさった。まさか、こんなに早く戻ってくるとは思っていなかった。


だが男は、直の動揺を気にも留めない。再び周囲をゆっくり見回すと、怪訝そうに首を傾げた。


「やはり……ここではない。この美術館は……」


そこで言葉を切り、夕焼け色の瞳を直に向ける。

その瞳には、深い困惑の色が沈んでいた。


「お前は、まだここにいたのか。」


低く響く声に、直は振り返った。

「だって....!!ここから、どうやって出るんだよ!出口はどこだ!?」

苛立ち混じりに叫ぶ。

「それに、あんた....今どこにいたんだ!?あの絵の中にーー?」


「さあな。」


「はぁ!?!?」


男は答えをはぐらかすように、しかし迷いのない足取りで闇の廊下を進み出した。


「ここではない。」

男は低く言い放つ。

「この美術館は、歪んでいる。私が見知った道ではない。」


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