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第2話『高校生だけど、美術館で絵から人が出てきた件』

乾いた音とともに、天井の照明が唐突に落ちた。

闇が押し寄せる。

直は反射的に息を呑み、肩を震わせる



……そのとき。


背後から、かすかな異音。


ガタ、ガタ。

額縁が震えるような低い音。

続けて、紙を無理やり裂くような、不快な破砕音。


直の背筋を冷たいものが走る。

全身が恐怖に縛られ、呼吸すら忘れてしまった。


──動けない。


必死に抗って、ようやく動かせたのは瞳だけ。

ぎこちなく視線を背後へと滑らせる。


そこで見たのは──絵の中から伸び出した、肌ではなく絵具が固まったような“手”だった。


ゆっくりと、だが確かに、額縁の枠を乗り越えようと指が動いている。

そのまま、体が絵の中からずるりと滑り出てきた。


直は息を呑んだ。


完全に絵から抜け出たのは――男だった。

闇の中、その瞳は橙にゆらめき、火種のように淡く輝いて直を射抜いた。

彫像のごとく整えられた頬の稜線、無駄を削ぎ落としたかのように均整の取れた肢体。

長く繊細な睫毛の影が頬をかすめ、滑らかな黒髪は一筋ごとに微光を孕み、まるで油彩の筆致が命を帯びたかのような艶を放っている。

そこに在るのは「人間」ではなかった。――ただ画家の想念が具現した、理想そのものが歩み出した姿だった。


「……誰?」


その声は驚くほど澄んでいて、妙に現実感を伴って響く。

直は、その場に縫い付けられたように動けない。

目の前の存在は、紛れもなく絵の中の人物だった。


肌も、服も、指先までもが現実の人間のようにリアル。

だがよく見ると、その表面は奇妙に滑らかで、わずかに絵の具の匂いを漂わせている。


「お、お前……絵、から……?」


ようやく絞り出した声は、ひどく掠れて震えていた。


男は首を傾げた。その仕草すら、絵の中の人物とは思えないほど自然で、生きているかのようだ。

オレンジの瞳は暗闇の中で淡く発光して見える。


「絵?」


男の視線が、自分がいた額縁へと向けられる。

そして再び直へと戻った。


「ああ、いつものことだ。電気が消えたから、また消灯時間かと思って出てきたんだが……」


……いつものこと?


直は混乱する。電気が消えたから? どういう意味だ?


「決まった時間に電気が消え、静かになる。そうすれば、私は自由に歩き回ることができる」


そう言って男は、直から少し離れた場所で、意味もなく数歩歩いてみせた。

その足取りは軽やかで――まるで人間そのもの。


「私はただ、電気が消えれば外に出る。それだけだ。だが、今日は……」


男の低い声が、闇に沈んだ美術館の空気を震わせた。

彼の視線は、薄暗い展示室をゆっくりと巡る。

浮かび上がるのは、静寂に閉ざされた絵画や彫像の影──普段ならただの美術品であるはずの輪郭が、闇の中では異様に生々しく、息づいているように見えた。


「……今日は、いつもと違う」

それは直に向けられた言葉というより、自分自身への呟きだった。


直ははっと気づいた。

──彼が「絵」から現れるのは、美術館の「消灯」が合図。

しかし今日は、まだ確実に閉館時刻より早い。

不自然に落ちた闇が、男にとっての「夜」を呼び寄せてしまった。

その瞬間に直が居合わせた──それが、この不可解な現象の理由なのだろう。


背筋を冷たいものが走る。

偶然ではない、呼び込まれてしまったのだ。


男のオレンジの瞳が、暗闇に鮮やかに光った。

燃えるようでありながら、どこか冷え冷えとしたその光が直を射抜く。


「お前は、何を知っている……? 私のこと、この場所のことを」


返す言葉は出なかった。


そもそも、自分だって何もわかっていない。友人たちはどこへ消えた? なぜ電気が消えた?


沈黙ののち、男はふいに瞳を逸らした。


「……構わない。いずれわかるだろう。私はもう行く。」

低く呟くと、背を向け、美術館の通路の奥へと歩き出した。


その足取りは、先ほどと同様、絵の具でできたとは思えないほどしなやかで、影を落とさずに闇の中を進んでいく。


「っっちょ、待て! どこに行くんだよ!」


思わず声を上げても、彼は振り返らない。

直は迷った。友人たちを探すべきか、それともこの奇妙な男についていくべきか。しかし、この真っ暗な美術館で一人になるのは、正直言って怖かった。


直は男の後を追った。頼りになるのは、闇の中で微かに光を放つオレンジ色の瞳だけだった。


男は慣れた様子で展示室を抜け、廊下へと足を踏み出した。

闇に沈む通路には、遠い壁にかけられた“現代アート”の残骸たちが、ただ黒い塊となって浮かんでいる。


だが、一歩、また一歩と進むうちに、男は眉を寄せた。

――妙だ。

いつもなら、夜の館にはかすかな「生きている証」があった。空調の囁き、巡回する靴音、遠くに流れる車の響き。

それらがすべて、どこかへ消え失せている。


耳を澄ませば澄ますほど、静寂は異様な重みを増していった。まるで空間そのものが音を拒み、息すら吸い込んで呑み込んでいるようだった。


「……静かすぎる」


男は立ち止まり、目を細める。

直も無意識に息を止め、彼の視線を追った。だが、目に映るのはただの暗闇。

それなのに、男の表情には警戒の影が落ちている。


「……空気が、違う」


低く呟く声は、空虚な廊下に吸われ、残響さえも残さなかった。

再び歩き出した彼の足取りは、もはや散歩のそれではなく、闇を探る獣のように慎重だった。



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