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2話 危機一髪



 馬車に揺られてどのくらい経ったのだろうか。私はサンドイッチを頬張りながら、誰も居ない目の前の空席を見つめていた。

 外はカーテンで仕切られていて全く見えない。光の加減で昼夜がなんとなくわかる程度。


 恐怖と不安が増していく中、不意に馬車が大きく揺れた。馬のいななく声がしたと思えば、次の瞬間に扉が勢いよく開いた。


 ——しかし、誰も来ない。


 扉は乱暴に開けられたはずなのに、人影がないのだ。


 警戒しつつ荷物を持って外に出てみると、御者は馬車に乗っていなかった。馬二頭だけが残されてもぬけの殻である。


 雪の踏まれる音がした。


 後ろを向くも間に合わず、私は御者に太ももを短剣で刺されてしまった。

 ああ、足を潰して逃げられなくする為か。


「エレン様からの命令でな。殺せと言われたからには痛めつけてから殺さないとなぁ?」


「ひっ、だ……誰か!!」


「来るはずないだろう。可哀想なルチェット嬢よぉ!」


 もう駄目だ、と思った。

 頭だけが冷静に回転して、勝手に思考を巡らせていく。


 顔もわからない私の母は、今どこで何をしているのだろうか。私の事なんて忘れて幸せに暮らしているなら、それでいいんだけど。


「痛い……」


 脳内に広がった光景は——冷たいバケツの水と、痛々しく赤くなった私の手のひら。

 廊下や階段をひたすらに、手の感覚が無くなっても掃除し続けた記憶。


 痣だらけの身体、毎晩見る悪夢。痛くて寝られなくて、毎晩死への恐怖と戦っていたっけ。


 あぁ、特によく覚えているのは——母の残した指輪をエレンに取られそうになった時のこと。結局取られてしまったけれど。


 全部とても痛くて、苦しくて。助けを求めても返ってくるのは嘲笑う声だけだった。


 私はこのまま死ぬのかな。

 でも、生きたいよ。ほんの少しだけでいいから、幸せに生きてみたいよ。


 ——そう思ったら、体が動いてしまった。


 私は着ていた分厚い上着を御者の頭にかけた。視界を遮っている内に、痛む足を引きずって逃げる。


 血が服を染めていく。降り積もる雪の中、私は生きるために必死に走る。


「この小娘!!」


 痛みを我慢しても体は正直で。怪我と雪のせいで上手く走れず、すぐに追いつかれてしまった。


「やめて!!」

 馬乗りにされて押さえつけられる。雪の冷たさと血の温かさで感覚がおかしい。


「来世ではお幸せにな!!」

 

 短剣を振り下ろされ、私は諦めてぎゅっと目を瞑る。 

 来世では幸せになれますように。そう願って、静かにその時を待っていた。


 すると、何処からか馬の鳴き声がした。続いて、バタリと何かが倒れる音。


 恐る恐る目を開けると、私の横には地面に伏せている御者。それから——知らない馬の顔があった。


「大丈夫ですか!? って、血が出てる……!」

 馬の主であろう男性の声がして、私は喉を引きつらせた。

 

 血が足りないからか、恐怖なのか。ほっとしたからなのか。それは分からないが、だんだん全ての輪郭がぼやけて視界が暗くなっていく。


 私の顔を覗き込む男性がなにかを叫んでいる。けれど、私はぼんやりとしか聞き取れずにそのまま意識を手放した。


________



「あっ、気絶してしまった……!」


 ルチェットが意識を手放してしまい、男はさらに焦っていた。馬も何処か落ち着かず、彼女心配している様子だった。


 男はルチェットを優しく抱え、馬に乗って手綱を持つ。


「急いで公爵邸に帰るぞ、頼む」

  馬はそれに応えるように軽く鳴いて、雪の中を軽やかに、素早く走り出した。


 ルチェットの顔色は青白く、肩の上下も早い。それを見て男はくしゃりと顔を歪めた。


「今日は公爵様の婚約者が来るのに……!」


 こんな時に何故事件が起こるんだ、と男は愚痴を零す。だが、ルチェットを抱える手は落とさない程度に優しいものだった。


 雪はいつの間にか先程より優しく降っていて、ルチェットを歓迎するかのように頬にポツリと落ちる。そのままじゅわりと解けて消えた。


 暫く馬を走らせていると、やがて大きな門へ辿り着く。門番は慌てて男に頭を下げる。


「お疲れ様です、騎士団長」

「いいから、この女性が見えるなら早く開けろ!!」


 門番は抱えられたルチェットを見ると、目を大きく見開きながら急いで門を開けた。


「ありがとう!」


 馬は整えられた石畳を一気に駆け抜けていく。


 知らない女性を勝手に敷地内に入れたこと。後で怒られるかもしれないが、それどころでない。


 大きな玄関扉の前で馬から降りる。ルチェットの体温は先ほどよりも冷たい。


「寒いだろうが少し待っていてくれ。」

 馬は鳴いて返事をし、扉へと男を促した。

 

 男は中に駆け込み、大きく息を吸い込んだ。それから、ガラスが割れるくらいの勢いで叫ぶ。


「誰か来てくれッ!!!」


 間もなく色々な方向からドタドタと物音がした。メイドや執事、料理人や騎士団員など、屋敷の人間が集まった。


「この女性を頼む、僕は公爵様に伝えてくるから」


 集まった人々はルチェットを預かると、早速処置にかかる。

 筋力がある騎士団員は直接圧迫で止血を。執事が暖炉を付けて休ませる部屋の用意を。料理人は止血が終わったルチェットを部屋へと運んだ。


 人々は皆、改めてルチェットを見る。


 容姿は整っているが……服は質素な物を着ているし、騎士団長が抱えて来たので平民の女性だろうと断定した。


 しばらく様子を見て、呼吸が少しずつ落ち着いたのを見てから人々は持ち場に戻った。 


 *


「う〜ん……」


 私が目を覚ましたのは、天蓋が垂れ下がるふかふかなベッドの上だった。

 首だけを動かして周りを確認すると、落ち着いた調度品が暖炉の火に照らされている。窓の外に視線を移すと、すっかり暗く濃紺色になっていた。


 どうしてここにいるのだろう。男性が助けてくれて、声をかけてくれて……そこで意識を手放したはず。

 私は立ち上がろうとしたけれど、太ももが痛くて上体を起こすことしか出来なかった。


 それにしても、ここは何処なのだろうか。

 もう一度辺りを見回していると、大きな楕円の鏡が目に入った。


「……酷い顔」

 

 実家(アルベレア家)では食事が貰えない時もあったっけ。と思い出しながら、痩せた顔を見て苦笑する。

 頬も少しこけていて、目の下にはクマがある。何より、青白い顔色が不健康さを物語っていた。


 このままもう少し寝させて貰おうかな、なんて考えていていたその時。扉が控えめに開く音がした。


 無言で入ってきたのは怖い顔をした男性で、黒色の髪に白色の髪が混じっている。

 男性は淡い水色の双眸で、私をじろりと見た。


「あの、えっと、ベッドをお借りしてます……?」


「……名を名乗れ、話はそれからだ」


「ルチェット・アルベレアです。実はシルベリア帝国の公爵様へ嫁ぐ予定だったんですが、この通り……」


 男性は眉をピクリと動かした後、さらに顔を顰めてしまった。もしかしたら失礼な言い方をしてしまったのかもしれない。


「ごめんなさい、なにか無礼を……?」

 おろおろと手を動かしながらそう問うと、こう返された。


「——それは、お前が俺の婚約者ってことなのか?」


「……えっ?」

 

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