閑話
「ルチェットが寝たら執務室に来るように」
屋敷に戻る直前、リメアはレアンにそう伝えられていた。心臓が早鐘を打っている。
残虐公爵と対峙する恐怖よりも、ルチェットへの心配のほうが大きかった。
リメアは深呼吸で心を落ち着かせ、執務室の扉を三回ノックする。中から返事が来ると、音を立てないよう扉を開けた。
書類を書く手を止めたレアン。その隣には、何故か騎士団長のカオン。深呼吸したのに、リメアの心臓がまた暴れ始めた。メイドなのでなんとか抑えたが。
「公爵様、何か御用でしょうか?」
意を決してリメアがそう聞くと、レアンの口から出てきたのは意味不明な一言だった。
「——腕」
静寂。時計の針が刻むカチカチという音しか聞こえない、
「……はい?」
「腕を触らせてほしい」
「……はい??」
腕とは。何故いきなり。端的な言い方に疑問しか浮かんでこず、困惑から思わず、「腕とは……」と聞き返してしまった。
そんなリメアを見かねたカオンは、彼女に近づいてこっそりと耳打ちをする。
「公爵様ね。夫人の腕が細すぎると思ったから、比較させてほしいんだって」
「私を比較対象にするつもりですか……??」
「そう、頼むよ」
仕えている主人に腕を触られるなんて。明日は槍でも降るのだろうか。降るなら金平糖にしてほしい。
リメアは内心怯えまくっていたが、やがて決心がついたのか——腕をバッと差し出した。
レアンは腕を見てから、あの時——ルチェットが轢かれかけた時のように腕を掴む。もちろん加減はしているが。
リメアの腕。女性特有の華奢さはあるものの、あれほど——ルチェットほどは細くない。ほどよい肉感があり健康的である。
「……やはり、あの女は細すぎる。カシエレの貴族はふざけているのか?」
リメアは何も言わなかった。ルチェットの過去を知っていて、それでも。
きっと自分で話すことを選びたいだろう。そういうリメアなりの気遣いだった。
カオンはそんな彼女を見て、眉を少しだけ寄せた。しかし、彼もまた何も言わなかった。リメアの様子が普段と違うから。
「公爵様、アルベレア家について調べてみてはいかがですか?」
突然の申し出は——カオンからだった。
「……なるほど」
「夫人のご実家について調べれば、何かあるかもしれません」
納得するレアン。話し込むカオン。そして——顔を青くしたリメア。
ルチェットの家について調べたら、意図せず彼女の過去が露見してしまうかもしれない。しかし、話を聞くかぎりあの父親がボロを出すとは思えない。
不安と焦燥に耐えながら、必死に気配を消していた。レアンが彼女の顔をよく見ていなかったのが、幸いといったところだろう。
「君はもう下がっていい。もう休め」
「し、失礼しました」
ようやく開放されたリメアは、執務室を出て廊下を歩く。自分の部屋へ向かって、早足で。
そして、ルチェットの部屋を通り過ぎようとして——止まった。中からはかすかに漏れる息遣い。
リメアはそっと、扉に手を添えて目を閉じる。
(私が。私がルチェット様をお守りしなければ)
窓から差し込む月明かりが、彼女の決意のように光っていた。




