『アカネの観察記録』後編
「──っていうことがあったの。本当に、生きた心地がしなかったんだから」
後日、昼下がりの商店街の片隅。
アカネは、自販機の横で大盛り焼きそばのパックを抱えていたタカシを捕まえ、数日前の夜警での出来事を、身振り手振りを交えて一気に吐き出していた。
アカネは二人の顔色を窺うあまり、勝手に疲れ切ってしまっていた。
「源蔵さんと西部さんって、やっぱりもの凄く仲が悪いんですか? 私、何か地雷を踏んじゃったんじゃないかって、あの後ずっと気になっちゃって……」
しかし、話を聞いたタカシは、焼きそばのパックを持ったまま、本当に不思議そうに首を傾げた。
「ん? 大将と西部さん?」
タカシは、太い指で頭をボリボリと掻きながら、ニカッと笑った。
「別に? 仲悪くねぇと思うぞ」
「えっ!? だって、一言も喋らないんですよ!? 挨拶も『おう』と『ああ』だけだし、目も合わせないし!」
「あはは、あの人ら、いつもそんな感じだからなー」
タカシは楽しそうに笑う。
「でもさ、大将、この前言ってたぞ。『西部は愛想はねぇけど、あいつが裏にいる時は、商店街の守りが一番硬い』って。結構、西部さんのこと信用してんだろ、あの頑固オヤジ」
「え……」
アカネは呆然とした。信用している? あの、今にも殴り合いが始まりそうな沈黙の中で?
ますます分からなくなったアカネは、また別の日、昼間の商店街を歩いていた西部に、恐る恐る声をかけた。荷物の搬入を終えて一息ついている彼の横顔は、やはりどこか冷ややかだった。
「あの、西部さん。源蔵さんのこと……やっぱり、苦手ですか?」
西部は煙草を取り出そうとした手を止め、丸眼鏡の奥からアカネを冷めた目で見下ろした。そして、躊躇いもなく吐き捨てた。
「合わん。あんな面倒な男、プライベートで付き合う気は1ミリもないな」
アカネの予想通りの答えだった。やっぱり嫌い合っているんだ、そう思った瞬間、西部は煙草に火をつけ、紫煙の向こうで淡々と続けた。
「でも、あの男はトラブルが起きても絶対に現場から逃げないからな。仕事をする上では、これほど楽な相手はいない」
「え……?」
アカネは、二度までも言葉を失った。
苦手だ、合わない、プライベートでは付き合いたくない。
なのに、返ってきたのは「楽だ」という、奇妙なまでの信頼の言葉だった。
アパートへの帰り道、夕暮れのオレンジ色の光が商店街のアーケードを斜めに染めていく中、アカネは一人でゆっくりと歩いていた。
頭の中で、タカシの言葉と西部の言葉が、何度も何度も交差する。
彼らは、仲良しじゃない。
お互いの家を行き来することもないだろうし、相手のプライベートの悩みに深く首を突っ込むこともしない。
それどころか、お互いに「合わない」「癪に障る」とすら思っている。
でも、嫌いじゃないのだ。
「仲が良い」とか「好き」という感情とは全く別の場所で、二人はお互いの「背中」を見ていた。
「この男は、仕事が正確だ」
「この男は、絶対に現場から逃げない」
言葉にせず、態度にも出さず、ただ相手の生き方の「芯」の部分だけを、お互いに冷徹に、けれど100%認め合っている。信頼している。
(そっか……。人間関係って、好きか、嫌いかの二択じゃないんだ……)
アカネの胸の奥に、今まで知らなかった新しい風が吹き込んでいくようだった。
かつての彼女の世界は、あまりにも狭く、極端だった。100か0か、白か黒か、愛か憎か。その二つの極論の間にしか人間関係を作れなかったから、いつも呼吸が苦しくなってしまっていた。
でも、源蔵さんと西部の間にあるのは、そのどちらでもない、もっと静かで、頑丈な「大人の距離感」だった。
ふと、前方に二人の背中が見えた。
夕暮れの商店街の向こう側、道具片手に歩いていた源蔵が、すれ違いざまに足を止めずに言った。
「西部」
「ああ」
西部もまた、歩みを止めずに短く応じる。それだけだった。
やっぱり雑談もなければ、笑顔もない。
それでも、夕闇が迫る商店街の中で、その二つの短い声だけで、十分すぎるほど互いの意思が通じ合っているのが、今の解像度を上げたアカネの目には、はっきりと見えた。
アカネは、自分の手元にある小さな鞄の紐をぎゅっと握りしめ、ふっと少しだけ優しい笑顔を浮かべた。
(ああ、大人って、こういう事もあるんだな)
世界には、「仲良くなれない人」がたくさんいる。自分のことを理解してくれない人も、性格がどうしても合わない人も、数え切れないほどいる。
けれど、「仲良くなれない人」と、「嫌いな人」は違う。
合わなくても、認め合うことはできる。
好きになれなくても、裏切らない関係を築くことはできる。
その新しい世界のルールを知っただけで、アカネの胸の奥の張り詰めが、ほんの少しだけ優しく解けていく。
源蔵も、西部も、最初から最後まで1ミリも変わっていない。ただ、夕暮れの街をいつも通り不景気そうに歩いているだけだ。
けれど、彼らが背中で教えてくれた静かな真実が、アカネの視野を、またひとつ、静かに広げてくれていた。




