温かな祈りの色【Ⅱ】
銀のスプーンが、落ちる。
その瞬間。
金属音が鳴るより早く、
床から一本の腕が、這い上がった。
「おっと」
僕の扱う骸骨ではない。
――ナーラの魔術だ。
太い腕は、淡く青く透けている。
掌の中心には、ひとつの目。
彼女が身に着ける装飾が、
そのまま具現化したかのようだった。
手は、落ちるスプーンを弾き返し、
僕の手元へと戻す。
役目を終えたそれは、
満足したように――空気へ溶けた。
「危なかったっすね」
「ああ、ごめん。
助かった」
ナーラの浮かべる無邪気な笑みで、
つい忘れそうになるが――
彼女の階級は、王位。
反射で、しかも無詠唱で魔術を行使するなど、
雑作もないのだろう。
小さく息を吐く。
「なあ、祭典のことなんだけど。
……三人一組って言ったかい?」
「言いましたよ」
即答。
「それが参加条件だったはずですから」
「終わりだ……」
視界が、わずかに暗くなる。
思わず、テーブルに額を打ちつけた。
思い返せば――
確かにソウマは言っていた。
一対一ではない、と。
その都度、ルールも条件も変わる、と。
僕が出場すれば、カレンも必然的に参加する。
だが、扱いはあくまで召喚獣や魔道具。
ひとり分には数えられない。
仮にアミナを加えても――まだ足りない。
視界が、すっと暗くなる。
そのとき。
「イズヒト様!
これ、すごく美味しいですよ!」
――黙れ、間抜け。
お前には、この心労は分かるまい。
……いや。
まだ、手はある。
「ナーラ」
顔を上げる。
「僕たちと一緒に参加してくれないか!」
――うわ。
「露骨に嫌そうな顔をしないでくれ。
食事に異物が混入していても、そこまではならない」
「飲食店で変な例えしないでくれませんか」
静かな抗議。
「私、魔術演舞って得意じゃないんですよねえ」
「そう、なのかい?
それでも君は、学園の最高ランクじゃないか」
ナーラは一瞬、目を丸くした。
それから、ゆっくりと目を細める。
口元が、わずかに引きつる。
「イズヒト君」
名を呼ぶ声は、
どこか小馬鹿にするようだった。
「もしかして王位の人たちを、
人の心をなくした戦闘集団だと思ってます?」
「……違うのか?」
「違うわぁ!」
鋭い突っ込みだった。
唐突に、肩へ風穴を穿ってきたソウマ。
風呂場で、局部を跳ね飛ばしたアミナ。
王位とは――
そうした所業を、
平然とやってのける者の到達点だと、
思っていた。
「私は別に、競技の成績がいいから
この証を与えられたわけじゃありませんよ」
一拍。
「どれだけ魔術を、
人々の生活に役立てているか。
あるいは、その力を持っているか。
学園は、それを基準に位を決めるんです」
――初めて知った。
だとすれば。
僕の指輪は――
本当に、人様に見せられない、
おぞましい代物なのかもしれない。
無意識に、
虚位の指輪を覆い隠す。
「……もちろん、ソウマ君みたいに
知恵と戦略で勝つ“競技の王様”もいますけど。
私の知り合いは、
同じ王位でも、人形劇をやってますよ」
「そう、か」
小さく頷く。
「それは――認識を改めなければな」
魔術の在り方は、
やはり時代とともに、大きく変わったらしい。
それでも。
人々の幸福のためにあるのなら。
それが評価の基準であるのなら。
かつて王であった身として――
これほど嬉しいことはない。
「イズヒト君。
何笑ってるんですか」
「え? ああ。
まともに学園に通っていないと、
ここまで社会性を欠くものかと、少し驚いてね」
「それ、笑うところじゃないと思いますけど」
ああ。
その通りだ。
笑い話にでもしてしまわなければ、
恥ずかしくて現世を歩けない気がしただけだ。
「……ナーラ。
それでも、参加してくれないか?」
「嫌ですね」
即答だった。
「いくらで君を雇える?」
「文無しじゃないですか!」
「……」
返す言葉もない。
もはや他人事のように、
黙々と食事を進めているカレンが腹立たしい。
死霊の身にとっては、
最も不要な営みのはずだが。
「というか、イズヒト君」
ナーラが、少し首を傾げる。
「どうしてそこまで、その祭典に参加したがるんですか」
「……?」
禁書庫に触れる権利が与えられる。
たとえ、その中身を知らずとも。
それだけで、魔術師ならば心を動かされる理由になるはずだ。
そう思っていた。
だが。
「景品なんて、市場で使えるお食事券一枚ですよ?」
「――!」
思考が、一瞬止まる。
そんなはずはない。
……いや。
理解した。
それは――表向きの報酬だ。
ハーリドでさえ破れなかった扉。
その制約として、
祭典の優勝者にのみ、開扉の権利が与えられる。
最初から、これは。
僕か――
あるいは、同じ地点に辿り着いた者へ向けた、
管理者側の“選別”だ。
規模を最小限に抑え、
真実に辿り着く者だけを、静かに拾い上げる。
……ナーラにも、話すべきか。
ハーリド王は――
かつてこの国の民を、
そして王妃を殺し。
不死の権能を以て、
この国を意のままにしようとしていると。
「ナーラ」
名を呼ぶ。
「はい?」
「君はいま、幸せかい?」
「何の勧誘ですか」
そんなつもりはない。
今ここで、神の乗り換えを問うてどうする。
「ハーリド王が統べるこの国で、
ナーラは笑顔でいられるかい?」
僕は、この世界をあまりに知らない。
民がいまの王政に、
どのような感情を抱いているのか。
真実を――告げるべきか。
ナーラは首を傾げ、
それから、静かに頷いた。
「はい。
それはもう、幸せですよ」
一拍。
「でも、それは王様が国を治めてくれているから、
という訳じゃないです」
言葉を選ぶように、少しだけ視線を落とす。
「仮に戦火の中にあっても。
貧しさに押し潰されそうでも。
私はその中で、
自分の手で、幸福を選び取ります」
だから、と。
「どこにいても、
私はきっと、笑っていますよ」
耳飾りが揺れて、かすかな音を立てた。
その声は、
湿った空気の中にやわらかく溶けていく。
――幸せを与えるのは、王ではない。
王はただ、
土台を整える者に過ぎない。
その上で何を掴むかは、
そこで生きる者が選ぶ。
彼女は、それを疑いもなく口にした。
ならば。
ナーラを、この戦いに――
僕の選択に巻き込むわけにはいかない。
彼女はすでに、
「嫌だ」と言っているのだから。
「そうか。
分かったよ」
一拍。
「じゃあ、君の勧誘は諦める」
「そうしてください!」
屈託のない笑み。
――これでいい。
彼女の居場所は、
もうここにある。
「ナーラ」
「はい?」
「……綺麗な耳飾りだね」
それは、僕なりの賞賛だった。
店のあちこちにも、
同じ意匠の装飾が揺れている。
彼女たちの祈りを、
形にしたものなのだろう。
ナーラは、少しだけ照れくさそうに頬を掻いた。
それから。
「はい!
なんか分からないですけど、
いいこと起きそうな感じがしますよね!」
「……」
――ハーリド。
やはり僕は、改めて思う。
祈りは、
形を変える。
時間とともに。
ナーラの身につけるそれも、
千年前とは違う形をしている。
きっと、意味も。
だが、それでいい。
意味を知らずとも。
今が。
そして明日が、
少しでも良いものであるようにと願うこと。
祈りの本質は――
それだけだ。
「……イズヒト様。
ナーラさんばっかり、ずるい」
「は」
何を言っているんだ、この食欲に取り憑かれた霊体は。
「カレンにも、同じお褒めの言葉を!
綺麗だと、愛していると!」
「誰がいつそんなことを言った。
耳飾りに向けただけだ」
「何でも良いので褒めて下さい!」
「良い食べっぷりだね」
カレンが抗議の声を上げる。
気が付けば、ナーラは席を離れ、
新たな客の案内に回っていた。
忙しいだろうに、
引き止めてしまったことを、少しだけ申し訳なく思う。
ようやく、目の前の煮込みへ手を伸ばす。
「……」
もう、冷めていた。
それでも。
この世界に来てからの十数年で、
口にしてきた何よりも――
「美味いな」
「ですよね!」
カレンが、満面の笑みを浮かべる。
これから先、
ここへ通うことをせがまれたらどうするべきか。
そんな、どうでもいい思考がよぎる。
「……イズヒト様。
やはり、変わられたんですよ。
食べ物の味を、感じられるほどに」
「そうかな」
「はい」
一拍。
「とても綺麗な、瞳の色をしております」
……おかしなことを言う。
いつもの戯言だ。
そう思って、軽く返した。
「そうかい。
どんな色をしているんだい?」
「街と同じ色をしています」
――その瞬間。
息が、止まる。
音が、一つ消えた気がした。
「温かな祈りの色です」
心臓を、掴まれたようだった。
刃でもない。
魔術でもない。
ただの言葉が、
確かに僕を貫いた。
血が、逆流する。
千年前へ。
僕の瞳を、
この街に重ねた者は――
ひとりしかいない。
冷や汗が滲む。
名が、浮かぶ。
クァリーン。
戦争の引き金となった少女。
――だが。
僕はその名を、
正しい響きで呼べなかった。
「お……お前」
唇が震える。
それでも。
当時の、拙い発音のまま。
「……《《カリン》》、なのか?」
「――!」
琥珀の瞳が、大きく見開かれる。
時間が、止まる。
あるいは――動き出す。
雨音だけが、
二人のあいだに落ち続けていた。
やがて。
カレンは――
静かに、涙を浮かべて微笑んだ。
「はい」
一拍。
「お久しぶりです」
まるで――
昨日の続きを、告げるみたいに。




