温かな祈りの色
屋外席に張られた布の天蓋が、
ぱらぱらと軽い音を立てている。
ナーラに連れられてきた店――
『La Mano de Hamsa』。
軒先には、
雨を避けるように人々が肩を寄せ合っていた。
だが誰ひとり、席を立とうとはしない。
むしろこの雨を、
待ち望んでいたかのようですらある。
濡れた風が、通りにこもっていた熱をやわらかく攫っていく。
砂と香辛料の匂いがわずかに沈み、
代わりに――
煮込みの湯気と、
甘い蜜の香りが、静かに立ちのぼった。
「はいはい、通りますよー!」
高く、よく通る声が、
雨音を軽やかに裂いた。
ナーラは片手に二皿、もう片方にパン籠を抱え、
客席のあいだを縫うようにすり抜けていく。
その足取りには、ためらいがない。
金の髪は湿った空気を含んで、
わずかに重たげに揺れていた。
耳元では、“守護の五指”の小さな飾りが、
歩みに合わせてかすかに鳴る。
最初に置かれたのは、
深い皿に満たされた煮込みだった。
「うお、イズヒト様!」
カレンの、抑えきれない興奮の声。
「この世の物とは思えない輝き……
これは、一体――」
「……ああ」
無意識に、喉が鳴る。
「これが、料理だ」
「……では、私たちがここ数日、
口にしていた物は――」
「聞くな」
静かに、言葉を差し挟む。
「明かしてはならない真実も、
この世には往々にしてある」
所持金は、
カレンに破壊された家の修繕と――
眠りを繋ぐ魔道具の購入で、ほとんど消えた。
だから僕は、
カレンに最底辺の生活を基準に教育を施していた。
わがままな居候にさせないために。
あの貧相な日々が――蘇る。
「カレン。
三回まではいけるぞ」
「本当ですか!
なんて経済的なのでしょう」
一度食べたオリーブの種だ。
これをお湯に浸す。
そして――
「では、行って来ますね!」
「ああ。
なるべく、外観の良い家を狙うんだぞ」
「了解しましたぁ!」
隣家の料理の匂いを、吸わせる。
通称――“隣人風スープ”。
カレンが外に出ているあいだに、僕は調理をした。
材料はすべて、
僕の“頭”と“尊厳”で買い取ったものだ。
石のように干からびたパンと、
廃棄される、ごくわずかな肉片。
それらを、串に刺す。
「カレン。
これが現世における家庭料理――“記憶のケバブ”だ」
「まあ……!
本当に、お肉が幻のようですね!
イズヒト様、お料理上手です!」
――カレンが、間抜けで助かっていた。
だからこそ、誤魔化せていたのだ。
だが今、否応なしに突き付けられる。
僕がこれまでしていたのは、食事ではない。
ただ、生命を維持するための――作業だ。
死者であるカレンが、なぜこの苦行に付き合っていたのか。
そんなことは――今は、どうでもいい。
「……」
サフランに染まった黄金の汁が、
羊肉と杏をやわらかく包み込み、
湯気の向こうで、油が静かに光を弾いている。
焼きたての平たいパンが隣に添えられると、
カレンは待ちきれず、指先をせわしなく動かし始めた。
次に運ばれてきたのは、
蜂蜜を絡めた焼き菓子。
湿り気を帯びた空気の中で、甘い香りが際立つ。
砕かれた木の実が表面に粗く残り、
かじれば、軽い音を立てて割れることが、見るだけで分かる。
さらに、小さなカップが二つ。
濃く抽出された黒い液面に、
カルダモンの香りがそっと浮かび上がる。
湯気は低く、それでも確かに立ち昇り、
雨に濡れた空気の中で、輪郭を失わずに漂っていた。
「こっちはあとでね、熱いから!」
ナーラはそう言って、くるりと踵を返す。
雨はまだ、やむ気配を見せない。
だが屋外席には、
皿の温もりと、人の声と、かすかな笑いが満ちている。
天蓋を打つ雨音はそれらを包み込み、
外の世界を、わずかに遠ざけていた。
穏やかだ。
この場所だけが――
切り取られたかのように。
「二人とも、それで足りますかー?」
店内から、ナーラの大きな声が響く。
「必要なら、まだ作るってお父さんが――」
「いや、もう充分だよ」
ほとんど反射で答えていた。
早々に料理へ手を伸ばそうとするカレンの手を、一度はたく。
「あだ」
「待て、カレン」
声は、妙に密やかだった。
「まずいことになった。
これだけの料理を支払える代金を、持ち合わせていない……!」
「これだけどころか、
一品たりともお支払い出来ませんね」
事実を、どこか楽しむように、へらりと笑う。
「では……初めての、食い逃げをされるおつもりですね……!」
「そんな惨めなことが出来るか」
一拍。
「少しばかりなら、土下座で許してもらうつもりだったさ」
「もはや、みっともなさに大差はないのでは」
「うるさい」
今さら、失う品位など持ち合わせていない。
それでも。
逃げて悲しませるよりは、
赦しを乞うて怒られた方が、まだいい。
そう思ってしまう程度には――
僕は、この場所を気に入ってしまっているらしい。
「……ここまで用意されるとは、思わなかったな」
諦めにも似た息を吐いた、その時。
店の中から、ナーラが歩み出てくる。
瞬間。
なぜか、僕もカレンも、背筋を伸ばしていた。
恥じらいはなくとも、
元王家の見栄だけは、まだ体に残っているらしい。
「……ナーラ。今さらですまない」
一度、言葉を選ぶ。
「実は僕たち、あまり金を持っていないんだ」
即座にカレンが続いた。
「私、お店の手伝いでも何でもします!
何日でも!」
唐突な申し出に、ナーラは目を丸くした。
言葉の意味を咀嚼する、わずかな間。
やがて理解が追いつくと、ナーラは腹の底から笑い声を上げた。
「あっははは!
お金がないのに、なんで黙って椅子に座ってたんですか!」
周囲の客にまで届く声量で、
それを言い放つのはやめていただきたい。
「ずっと、どうするか悩んでたんすか?
あっははは!」
これはもう、公開処刑だ。
顔が熱を帯びていくのが、自分でも分かる。
ナーラはひとしきり笑い転げたあと、
目尻に滲んだ涙を指で拭った。
「はあ、笑った。
イズヒト君たち、めちゃくちゃ面白いですね」
「……これで一品分の遊興にはなったかい」
「いや、ごめんなさい。
先に言うべきでした」
一拍。
「お金はいりませんよ」
「……え」
「これは、私たち家族からの好意ですから」
カレンと顔を見合わせ、同時に首を傾げる。
ナーラは、晴れ間のような笑みを浮かべた。
「お二人とも、香辛料たちを守ってくれたじゃないですか。
あの中、けっこう高いのも混ざってたんですよ?
雨で濡れてたら――」
ふと、その笑みが固まる。
「……厳しい父親なのかい?」
「まあ、それなりです」
一拍。
「私は今日、解体されて――
限定メニューにされてたでしょうね。ナーラの煮込み」
「今すぐ家を出たほうがいい」
彼女の、あまりにもよく通る声は。
もしかすると――
誰かに助けを求めるために、
獲得されたものであったとしても不思議ではない
そう考えると、
さっきまでの笑いが、少しだけ遠のいた。
「あはは。
でも今日のこと話したら、お父さんが二人に食事を振る舞うって」
「……なら、もっと早く言って欲しかったよ」
テーブルに頬杖をつき、
小さく不満をこぼす。
ふと、店の小窓へ視線を向ける。
厨房の奥で、筋骨隆々とした男と目が合った。
ナーラの父だろう。
こちらに気さくに手を振ってくる。
だから僕たちは、
軽く会釈だけを返した。
「ありがとう。
じゃあ、頂くよ」
「どうぞどうぞー。
感想、ぜひ聞かせてくださいねー!」
緊張と緩和の揺り戻しで、
食事がまともに喉を通るかも分からない。
それでも――ようやく、一息つく。
食器へ手を伸ばした、その時。
「でもイズヒト君たち、どうして文無しなのに、市場を歩いてたんです?」
不意に、ナーラが問いを投げてきた。
「ああ。
近々、学園で行われるっていう――
魔術演舞の祭典について、調べたくてね」
「祭典……」
ナーラは視線をわずかに宙へ彷徨わせ、
こめかみを軽く叩く。
やがて、思い当たったように。
「ああ……」
一拍。
「あの、三人一組のやつですか?」
――その、あまりにも軽い言葉に。
僕は、思わず。
手にしていた食器を、取り落とした。




