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死霊が隣に在る日常

 空は、どこまでも青い。


 石壁に映る光が、

 砕けた空を無数に貼り付けたように揺れている。


 市場通りでは、香辛料の袋がゆるく口を開き、

 サフランの金、乾いた無花果いちじくの紫、オリーブの深緑を静かに並べていた。


 声を張り上げる商人もいる。

 だがそこに焦燥はない。


 争いではなく――暮らしの調べ。


 子どもたちが水路にかかる低い橋を駆け抜ける。

 焼きたての平たいパンを分け合い、笑う。


 その声は尖塔の先に触れ、

 空へとほどけていく。


 石段に腰かけた老人は、水の流れを目で追いながら、

 何世代も前の物語を孫へ手渡している。


 屋上では、洗い立ての布が風を孕む。

 青と白が空と溶け合い、境界を失う。


 遠く、砂漠の端に揺らぐ陽炎さえ、

 この街に敵意を持たない。


 アル・ナフリールは、

 戦を知らぬ顔で、今日も息をしている。


 昨日の、

 極限の緊張も。

 心臓を掴まれるような殺気も。


 すべてが、遠い幻のようだ。


 現世を生きるただ一人の感情など、

 世界の側は、顧みもしない。


 僕がいかに魂を削ろうと、

 石も、空も、水も、何も変わらない。


 そういうものだ。


 だからこそ。


 この街は、美しい。


 しかし――

 隣を当然の居場所のように歩くこの女だけは、違う。


 この街の景色の中で、

 彼女の笑顔だけが、妙に歪んで浮いて見えた。


「イズヒト様!

 次はどこを見て回りますか?」


 市場に弾ける声。


「広場に踊り子がいるようですよ!

 それとも先に何か食べますか?

 イズヒト様の行きたいところに、カレンはお供致します!」


「……土産屋がいい」


 温度のない返答。


「まあ。

 もしかして、私にプレゼントを?」


「ああ」


 一拍。


「お前にぴったりの棺桶を探そう」


 瞬間。

 視界が、落ちた。


 声を上げるより早く、

 大地が唸りを上げて迫る。


 衝撃。

 砂埃が舞い上がる。


 頭蓋の奥で、鈍い痛みが弾けた。


 ――僕は、死んだのだろうか。


 少なくとも、

 頭を掴まれ、顔面から地面に叩きつけられたことだけは理解できる。


 だが、痛みはすでに遠い。


 治癒の光を手に灯しながら、

 カレンは晴れやかな笑みで言った。


「じゃあ、二人で仲良く入りましょうね」


「……お供すると言っておきながら、

 お前の世界に引き込むな……」


 呻くような声が漏れる。


 この女は――


 膨大な魔力を持つのをいいことに、

 治癒さえすれば、何をしても許されると思っている節がある。


 カレンは、周囲の視線など一切気にしていない。


「せっかくのデートなのに、

 イズヒト様が雰囲気をぶち壊しになさるからです」


「僕は、魔術演舞デュエロ・マギアの祭典について調べに来ただけだ」


 当然の主張。


「お前が“護衛”すると言って聞かなかったから、

 同行を許しただけだ」


 昨日の出来事があっての、今日だ。


 僕がカイス・イブン・アル=ウラキウスの転生者だと知られた以上、

 ハーリドが何を仕掛けてくるか分からない。


 だからこそ、カレンの申し出は自然で――

 むしろ、至極真っ当ですらある。


「だとしても!

 だとしてもです!」


 抗議の息が荒い。


「守護霊だろうと!

 背後霊だろうと!

 地縛霊だろうと!」


 一拍。


「男女が二人、肩を並べて歩く!」


 指を突きつけ、宣言する。


「それはもう、デートと言って差し支えないのではないでしょうか!」


 僕は地面に転がったまま、空を見上げる。


 高い。


 どこまでも青い。


 街を行き交う人々の、憐れむような視線も――

 いまはどうでもいい。


 僕はゆっくりと、身体を起こす。


「……よし、カレン」


 声は、妙に冷静だった。


「はい?」


「男女が二人並んでいる」


 指を一本立てる。


「女は、暴力が趣味の猟奇殺人鬼だ。

 今日も誰かの悲鳴が聞きたくて、よだれを垂らしながら街を歩いている」


「どんな教育を受けたのでしょう。

 親の顔が見てみたいものです」


 僕もそう思う。

 お前のことだとは、わざわざ言わない。


「かたや男は、か弱く震えながら隣を歩く」


 二本目の指。


「今にも恐怖で尿を漏らし、泣き崩れてしまいそうだ。

 周囲に助けを求めるハンドサインも止めない」


 場面を並べ終える。


 一拍。


「……これは、デートか?」


「デートです」


 即答だった。


 思考回路はすでに職務を放棄し、

 結論だけが残っている。


 ――限界だった。


「どこの世界に、そんな狂った逢瀬おうせがあるんだ!

 お前が結んでいるのは赤い糸じゃない――」


 叫ぶ。


「重たい鎖だああ!」


 カレンは、にこやかに頷いた。


「断ち切れぬ糸をご用意するのが、乙女の作法でございます。

 イズヒト様の心を繋ぎ止めるためなら、鎖をも赤く染め上げましょう」


「その色は拉致監禁の結果だろうが……」


 吐き捨てる。


「……異常者め」


 直近で、物理的に血に染められた経験がある以上、

 軽口としても笑えない。


 いや――


 もはや冗談ですらないのだろう。


 カレンは、純粋な心から、

 この歪な愛を掲げている。

 

「もういい」


 立ち上がる。


「あの、イズヒト様。どちらへ?」


「……トイレ!」


 不貞腐れた子供のように言い放ち、

 僕はそそくさとその場を離れた。


 本当の理由は違う。

 カレンを巻くためでもない。


 市場の裏路地へ曲がり込む。


 表通りの喧騒が、壁越しに薄く滲む。

 だが、ここには人影がない。


 僕は手を広げ――


 叩いた。


 乾いた音が、路地の奥へと軽やかに跳ねていく。

 波紋のように、壁を伝いながら。


 ほどなく。


 屋上から、軽い着地音。


「イズヒト様」


 声に抑揚はない。

 だが、どこか柔らかい。


「お呼びでしょうか?」


「アミナ」


 忠臣。


 彼女の前世の記憶は、

 ハーリドによって捏造されたものではない――

 その確証は、すでに得ている。


 だからアミナは今、


 僕にとって現世で最も信頼できる従者だ。


「僕はさっき、殺されかけたぞ」


 ため息混じりに言う。


「ちゃんと見張ってくれてるんだよな?」


「もちろんです」


 返答に迷いはない。


「カレン様がイズヒト様へ害を為そうとしたなら、

 私がカレン様を討つ」


 一拍。


「その算段でおります」


 アミナはいわば――保険だ。


 護衛を名乗り出たカレンが、

 うっかり僕を殺してしまわないための。


 今日は一日、

 身を潜めて監視してもらっている。


「アレはもう、存在自体が危険だ。

 いつ仕留めてもいいぞ」


「……お言葉ですが」


 静かな前置き。


 アミナは、僅かに口許を緩めた。


「カレン様は、イズヒト様を励まそうとしているのかと存じます」


「僕はいつから、痛みに歓喜する変態になった」


「そうではありません」


 綻びが、ゆるやかな微笑みに変わる。


「昨夜は――刃の上に立つ静けさでした」


 一拍。


「それからのイズヒト様は、

 ずっと考え詰めておられるご様子でしたから」


 当然だ。


 僕に許されているのは、

 思考を止めないことだけだ。


 『救済聖書ビブリオ・サルバシオン


 『欺界聖書ビブリオ・エンガーノ


 魔術演舞デュエロ・マギア

 戦争。

 カレン。


 並べるだけで、息が詰まる。


 どれもが、現世の平穏を脅かすものだ。


 僕には責任がある。

 かつて玉座に在った者として。


「対策はいくらあっても足りない」


 低く言う。


「心を研ぎ、張り詰めたままでいなければ――

 僕は何も守れない」


 昨夜の光景が、脳裏に滲む。


 半身を失ったアミナ。


 約束された死。


「僕だけでは、君を失っていた」


 声が、わずかに掠れる。


「そして……側に居たのなら、

 なぜもっと早く助けなかったのかと――」


 一拍。


「内心でカレンを責めている自分に、腹が立つ」


「カレン様にとって」


 アミナは、静かに言う。


「イズヒト様が一番で。

 その後には、誰も続かないからでしょう」


 断定だった。


 そこに怒りはない。


「例え私が死のうと、イズヒト様が無事であれば良い」


 一瞬の沈黙。


「ですから、あの時もカレン様は――

 己の使命を全うしただけなのだと思います」


「カレンに腹を立てないのか?」


 僕は問う。


「僕が黙っていたなら、

 君をそのまま見殺しにしていたんだぞ」


「感謝こそすれ、恨むことはありません」


 穏やかな声だった。


「事実、カレン様は奇跡の力を以て、

 私を助けてくださいましたから」


 理解の外にある技。


 魔術ではない。


 ただの――祈り。


 いずれ、カレンを問い詰めなければならない。


「カレン様は、ずっとイズヒト様だけを想っているのです」


 アミナは言う。


「他のすべてが添え物になるほどに」


 わずかに目を細めて、


「ですから今日の戯れも――

 カレン様なりの“寄り添い”なのでしょう」


「……」


 僕を傷付けてまで愛を語るカレン。

 言いつけを破り、窮地に駆け付けたカレン。


 そして――


 緊張の夜が明け、

 日常へ戻ったことを演出するカレン。


「僕は……」


 言葉が、わずかに途切れる。


「これから、どう接すればいい?」


「それは、イズヒト様の御心のままに」


 アミナは静かに答える。


「私の忠義は、

 御身の選択の中にあります」


 そのときだった。


 路地の入口から、

 聞き覚えのある足音が近付いてくる。


「あ、イズヒト様!

 もう、探しましたよ!」


 カレンの声だ。


 この状況を見られては都合が悪い。


 男女が肩を並べて歩けばデート。


 その方程式が脳内にあるカレンからすれば――

 この密会から導かれる結論は、嫉妬による殺戮劇だ。


 咄嗟に、アミナの方を見る。


 だが。


 そこには、もう誰もいない。


 忠臣の危機管理能力には脱帽する。


 僕は喉を低く鳴らし、声の調子を整えた。


「ああ、悪い。

 ちょっと道に迷って」


「駄目ですよ」


 カレンはすぐ目の前まで来ていた。


「一人でこんな所を歩いたら、

 またどこのソウマ様に因縁を付けられるか分かりません」


「いや、あいつ別にそんな悪い奴じゃ――」


「ほら、はやく行きますよー!」


 腕を取られる。


 強引に。


 だが、どこか楽しげに。


 日常に、戻る。


 死霊が隣に在る日常に。


 腕を抱え込まれたまま、

 市場の光へと引き戻される。


 眩しい。


 笑みも。

 琥珀の瞳も。


 僕は――


 かつてにも、


 この光に触れたことが、


 あったのだろうか。

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