戴冠
「カレン……」
予感ではない。
確信でもない。
ただ――そうなると、どこかで知っていた。
彼女は、僕の側を離れていなかった。
“常に一定距離を保て”という制約は、
召喚の縛りにない。
そもそも、カレンは主従関係すらも歪める存在だ。
だから。
ここに在るのは、義務ではない。
選択だ。
気配を殺し、
魔力を沈め、
意識の縁で、僕を観測し続けていた。
従者としてか。
監視者としてか。
それとも――
分からない。
だが、分からなくていい。
来た。
それが、答えだ。
「……よく応えてくれた」
礼でも、賞賛でもなかった。
ただ、状況を整理するための声。
正直に言えば、
半ば、疑っていた。
彼女は来る。
そう信じながら。
それでも、
来ない可能性を、
どこかで計算していた。
信頼と打算が、拮抗していた。
だが今、その天秤は崩れた。
彼女は――
命令ではなく自らの意志で、
ここに立っている。
カレンは、僕の内側の逡巡など意に介さない。
言葉はそのまま受け取られ、
感情は濾過されずに表へ出る。
褒められた幼子のように、
無防備な笑みが咲く。
「イズヒト様……!
今のカレンはえらいですか?
イイ感じですか?」
息継ぎも忘れ、
「言いつけを破ったこと、お叱りになりますか?
どうか、どうか!
無闇に女性を捕まえ、子種を振り撒くなどと仰らないで下さいいい!」
嘆願というより、
処罰を待つ信徒の祈りに近い。
――歪んでいる。
だが今は、間抜けの歪みに触れてやる暇はない。
「カレン、治癒魔術を頼む!
アミナが、重傷なんだ」
「え――」
笑顔から、温度が剥落する。
視線が辿る。
そこに横たわるアミナ。
右半身が、ない。
斬られたのでも、
抉られたのでもない。
“質量だけが失われている”。
空間の都合で、
彼女という存在の一部が省略されたかのように。
「アミナさん!」
命令に従うというより、
目に移る光景を拒絶するような反射。
駆け寄り、
即座に術式を展開する。
「必ず、助けます。
だから、諦めないで……!」
治癒の光が灯る。
術式は正確だ。
流れも淀みない。
だが。
光が、定着しない。
傷を縫う前に、
弾かれる。
「……無駄だ」
低い声。
祭壇の奥。
吹き飛ばされたはずのハーリドが立つ。
ねじれた首を、当然のように戻しながら。
「その者が私に触れる直前――
呪いを仕込んだ」
淡々と。
「魔術を反射する形でな」
石床を一歩、踏む。
「彼女は優秀だ。
気付いていたはずだ」
薄く笑う。
「それでも、私を殺すことを優先した」
誇るでもなく、
責めるでもなく、
ただ事実として告げる。
「己の命を、捨ててな」
アミナは、結果を受け入れていた。
否。
受け入れたのではない。
命を賭けてなお、
生の可能性を一片でも引き寄せると信じた。
自らを中心と定めた者の、
最後の選択。
カレンは静かに、名を呼ぶ。
「……イズヒト様」
声は、先ほどより低い。
「頭を吹き飛ばしたはずでした。
あの者は、一体……」
軽口は消えている。
「現世の王だ」
短く告げる。
「理屈は分からない。
だが、不死の体系をその身に宿している」
一拍。
喉の奥に残っていた名を、押し出す。
「あいつは――千年前、
アーイシャを殺した男だ」
空気が止まる。
「――!」
動揺。
しかし、『私がアーイシャだ、そんなはずはない』
という即座の拒絶は、来なかった。
これまでなら、
病で死んだ王妃の物語を纏い、
軽く、かわし、はぐらかしていたはずだ。
だが今は違う。
名は、否定されない。
ただ、理解を胸の内に落とし、
受け止める声音。
瞳に宿る光は、刃に似ている。
「分かりました」
短い。
「では、あの者は――
私たちの怨敵ということですね」
“私たち”。
はっきりと、複数形で告げられた。
共有された過去はない。
だが、立つ場所は同じだ。
彼女は未だ、得体の知れぬ存在。
それでも。
ハーリドの側には立っていない。
それだけで、十分だった。
「ああ」
喉がひりつく。
「僕はアミナまで、
あいつに奪われたくない」
願いは、王の言葉ではない。
ひとりの男の、剥き出しの声だ。
「それがイズヒト様の願いであるのなら――」
カレンは、わずかに笑う。
自嘲を含んだ、
それでも崩れない笑み。
「私は、必ず応えなければなりませんね」
「呪いは癒えぬ」
冷徹な断定。
ハーリドの声が、石壁を打つ。
「術者の私であってもな」
一歩、踏み出す。
「彼女の死は――約束されたのだよ」
“約束”。
その語が、千年前の夜を引き寄せる。
あの時と同じ響き。
逃れられぬ未来として、
置かれた言葉。
心臓が、握られる。
指先が震える。
またか。
また、守れないのか。
だが。
カレンは、治癒の光を静かに収める。
そして。
震える僕の手を、包む。
「大丈夫ですよ」
柔らかい声。
「イズヒト様」
一拍。
その瞳には、迷いがない。
「イズヒト様の為に在る私に、
世界の意思など関係ございません」
静かに。
確信として。
「従うのは――世界の方です」
「お前の狂信的な願望など、何の力にもならない!」
叫びは、怒りではない。
敗北の予感だ。
「同じ呪いだ……!
また、僕は大切なものを救えず、溢してしまう」
声が裏返る。
涙はない。
だが、あの夜と同じ位置に、
心は既に落ちている。
繰り返し。
守れない未来。
カレンは、何も言わない。
ただ、そっと手を離す。
証明する、とでも言うように。
手を組み――祈りの形を取った。
懇願か、あるいは懺悔か。
何を信仰し、誰に向けて語り掛けているのか。
聴き取れぬほど微かな声が、零れていく。
だが、分かることがある。
これは、詠唱ではない。
魔力の流れも、術式の展開もない。
ただ一人の少女が、
世界に向かって目を閉じているだけ。
――そのはずだった。
「……!」
ハーリドの表情が、歪む。
千年を経ても揺らがなかった男が、
初めて、理解の外側に触れた顔をする。
視線の先。
音もなく、アミナの失われた質量が戻る。
削除された存在が、
何事もなかったかのように接続されていく。
“約束された死”が、
静かに、
書き換えられていく。
呪いが剥がれる。
禍々しい魔力が、
根から抜け落ちる。
世界が、抵抗しない。
むしろ。
従う。
カレンは、ゆっくりと目を開く。
当然のことのように。
「【回帰の光】」
そこで初めて、魔術が発動する。
淡い緑の光。
先ほど弾かれたはずの術式が、
今度は何の妨げもなく流れ込む。
命が、定着する。
呼吸が戻る。
鼓動が整う。
目の前の光景は、
もはや術式の問題ではない。
理屈の問題でもない。
奇跡――
そう呼ぶしかない何かが、
確かに、起きている。
成し遂げてから、カレンはわずかに微笑んだ。
「これで、アミナさんは、もう大丈夫です」
何が起きたのか。
理解が及ばない。
原理も、仕組みも。
それは、ハーリドとて同じはずだった。
均衡を崩したのは、彼の声だ。
「馬鹿な!
死を決定付ける呪いだ! あり得ない!」
千年揺らがなかった断定が、
初めて否定される。
「前例がなければ不可能と決めつける。
力を持つ者の弊害なんですかね」
少し呆れたような口調でいて、
琥珀の瞳には僅かに悪戯めいた色が宿る。
かつての僕にも、向けた台詞だったのだろう。
「お前は、なんだ――」
名ではない。
存在の定義を問う声。
カレンは、迷わない。
「イズヒト様の妻、だった者です」
「正妃アーイシャは私が殺した。
その後に王が妾を取った記録はない」
「証人は不要です」
即答。
「私がイズヒト様を愛しているという事実は、
それだけで完結しております。
歴史に名を残すなど、余分な装飾に過ぎません」
その瞬間。
足元に、柴色の魔術紋が展開する。
【雷砲】ではない。
幾重にも重なる幾何学文様。
術が完成する前に、
空間が軋む。
色を変え続ける雷光。
熱と冷気が同時に走る。
最上位魔術の圧力。
放たれれば、この国そのものが滅びを迎える。
悪寒だけが、場を支配する。
「……悍ましい力だな。
世界を滅ぼすつもりか」
遅れて、ハーリドが魔術を組み上げる。
だが。
カレンの指先が鳴る。
それだけ。
音と同時に、彼の術式が霧散する。
「――!
この力は……」
理解が追いつく。
「カイス王のものか!」
答えは返らない。
代わりに。
冷たく、常人の枠を越えた者として、淡々と。
「退いて頂けませんか?
応じて頂けなければ、“終焉の雷”をこの地に落とします」
「私は死なない。
それでは脅しにもならないぞ」
「理解出来ませんか?
やはり、王としては、イズヒト様の足下にも及びませんね」
「何……?」
雷光が奔流となり、
長い髪を揺らす。
空気が震える。
「私は、人質を取っているのですよ?」
一拍。
「この国、そのものを」
凍りつく。
千年生きた王の顔色が、
初めて明確に変わった。
やがて、ハーリドの唇に笑みが浮かぶ。
だが。
額には、消せない汗が滲んでいる。
「はっ。
お前に街の者が殺せるか?
かつてのカイス王が築いた国だ。
その民を――」
「民が、何です?」
遮る。
声には、もう温度がない。
人の声色ではなかった。
「民も、国家も、世界さえも。
どうぞ一つの皿に。
ですがもう片方には、イズヒト様がいらっしゃる。
――結果は、初めから決まっております」
一拍。
「私の天秤は、傾くことを知りません」
沈黙。
「……狂っているな」
「狂わずして、何を愛と呼ぶのでしょう。
人を愛しく想うという構造そのものが、
既に理性の外にあるのです」
言葉が終わる頃には、
それは理屈ではなく、定理のように場を支配していた。
そして。
「貴方こそ、壊されては困るのでしょう?」
静かに、刺す。
「……貴様」
「千年を生き、王の座に在る。
ならば、その玉座が必要な理由を、
お持ちの筈です」
不死。
だが、国家は不死ではない。
死なない王と、
滅び得る国。
矛盾。
それが王を縛る鎖。
アーイシャでは、こんな交渉は出来なかった。
民を秤に載せるなど。
だが。
カレンは、アーイシャではない。
愛の形が違う。
だからこそ突ける。
不死の男の、唯一の弱点。
主導権は、既に移っている。
カレンは告げる。
「さあ、お選び下さい」
雷光が低く唸る。
「偽りの王よ――」
世界が、息を止めた。




