王は、動かない【Ⅱ】
「ナディルを連れて逃げろ!
こいつは――
アーイシャを殺した!」
足が、自然と一歩前へ出る。
退路を塞ぐために。
「僕たちの“敵”だ!」
声が石壁を震わせる。
だが。
アミナは振り返らない。
問いも、躊躇もない。
命令――いや、
それが与えられた使命であると、瞬時に理解したのだ。
ナディルの手首を掴む。
強引に引き寄せ、静かに、しかし確かに告げる。
「走って」
二人は祭壇の出口へ駆ける。
だが――
ハーリドの指先が、空に弧を描く。
それは威圧でも、誇示でもない。
ただ。
円を、結ぶ仕草。
「【|門の円環《ハルカト・アル=バーブ》】――閉じよ」
無詠唱の魔術。
名の響きは旧き時代のもの。
力の波や、衝撃はなかった。
それでも。
世界が、静かに裏返る。
出口に、薄虹色の膜が降りる。
夜気に溶けるような、淡い光。
アミナとナディルはそれをくぐる。
次の瞬間。
足が止まる。
「……え」
視界にあるのは――祭壇。
背後の篝火。
石床。
同じ位置。
「アミナ姉ちゃん……どうなってるの」
震える声。
アミナは、ゆっくりと振り返る。
「……入口と出口を輪にする術式です」
冷静に、だが硬い声音。
「外へ出たという事実そのものを、
円環に組み込んでいる」
出口の先に星はある。
篝火もある。
夜風も吹いている。
破壊も、歪みも、違和感もない。
ただ。
踏み出した先が、再び“ここ”になる。
拒絶ではない。
封鎖でもない。
――循環。
ゆえに、壊せない。
入る者を拒み。
去る者を還す。
この場は、すでに閉じられた。
誰も外へは出られない。
そして。
誰も、ここから逃れられない。
悟った瞬間。
思考より先に、僕の身体は動いていた。
壁に掛けられた湾曲の刃――
短刀。
儀礼のための品だろう。
だが、今は関係ない。
神聖も、格式も、秩序も。
この場では、すべて後回しだ。
柄を掴み取る。
冷たい。
次の瞬間、魔術名を叩きつける。
「【死者の握り手】!」
足裏で石床を踏み打つ。
鈍い衝撃。
広がる柴色の魔術紋。
それを引き裂くように、地が裂ける。
歪な白骨の腕が、底より這い上がる。
一本。
それでは足りない。
踏み込み、もう一度叩く。
もう一本。
土埃を纏った指が、確かにハーリドの両腕を掴んだ。
僕に全盛期の力はない。
拘束できるのは、刹那。
それでいい。
躊躇は、とうに捨てた。
この男は――ここで終わらせる。
身体を捻る。
柴色の魔力が、眼底を焼く。
短刀を、首筋へ切り上げる。
肉を裂く感触。
浅い。
浅い。
「あああ――!」
もう一歩踏み込む。
距離を殺す。
刃を反転。
胸へ。
心臓へ。
容赦なく突き立てる。
刀身から伝わる重い抵抗。
骨の軋み。
だが、全体重を乗せて貫く。
息が抜ける。
その瞬間。
記憶が、逆流する。
血に濡れた石床。
崩れ落ちる臣下。
アーイシャ。
届かなかった手。
あの時――殺したはずだった。
確かに、この手で。
それでも。
この男が今ここに存在する事実。
感情は不要だ。
疑問も、
怒りも、悲しみも。
この男を前にすれば、すべて足枷になる。
「すぅ……!」
胸奥に突き立てた刃を、捩じる。
さらに骨が鳴る。
構わず水平に、薙ぐ。
鮮血が弧を描き、石壁を染める。
落ちる静寂。
荒れた呼吸だけが響く。
僕はゆっくりと、刃を引き抜く。
「貴様の死は――」
声は低い。
震えてはいない。
「風に削られるまで晒しておこう」
千年前の、従者たちへ。
これは鎮魂だ。
「同じ血の色をしていることさえ――赦し難い」
滴る赤が、石床に落ちる。
音は、小さかった。
粗雑な魔術制御だったことは、分かっている。
白骨の腕は、自壊し砂のように崩れた。
「……?」
違和感。
支えを失ったはずの身体が、動かない。
倒れない。
揺れない。
血を浴びたまま、この男は直立している。
ゆっくりと、面を上げる。
瞬きはない。
痛みの影もない。
「満足か」
声音は、氷より平坦だった。
「カイス王。
――いや」
一拍。
「イズヒト」
名を、正確に置く。
刃は、まだ胸にある。
それでも視線は揺らがない。
「儀礼剣に頼るとはな」
わずかに視線を落とす。
「やはり、力を失っているか」
分析。
それだけだ。
「転生の代償か。
あるいは、本来の魔力を振るえぬ制約でも抱えているのか」
息が詰まる。
読まれている。
「最強の魔術師たる貴方のことだ。
再帰の体系を自身に組み込んでいることは、想定していた」
淡々と。
千年の隔たりを、ただの前提のように扱う。
「だが――」
視線が、静かに戻る。
「千年来の再会というには、
あまりに粗末な出来であろう」
その瞬間。
胸の傷が、閉じ始める。
音もなく。
血が、引き戻される。
裂けた肉が、時間を巻き戻すように接合する。
「……」
詠唱も、
魔力の奔流も感じられない。
ただ。
“そうであるべき形”へ戻るだけ。
世界の側が、彼を正す。
「貴様……」
言葉が重い。
「死なぬのか」
問いというより、確認だった。
傷は消える。
血痕だけが、石床に残る。
いや。
それすら、薄れていく。
見覚えがある。
この景色、この感覚。
舞台の中の演出。
魔術演舞。
観測者に保証された均衡。
敗北しても、死なない空間。
まるで――
この場そのものが、
彼の領域であるかのように。
ハーリドは、静かに言った。
「ここでは、私は死なない」
血の跡を踏んだまま。
「この場において、私は王だ」
種明かしや誇示ではない。
ただ、事実を置いた。
風が止まる。
篝火の音すら遠い。
この空間が、固有の結界内であるのか。
現世での王権の権能か。
世界の優先順位そのものか。
判断はつかない。
だが、確かなことがある。
――彼は、今すぐ僕を殺せない。
力の差は明白だ。
得体の知れぬ加護。
千年分の知識の累積。
揺らがぬ魔力。
対する僕は、削られた器。
悪霊に蝕まれ、奪われ、制約に縛られた身だ。
それでも。
今、生きている。
であれば。
殺せない理由がある。
理由を探れ。
「貴様――」
息を整える。
「敵国であったナフリーラトゥ・ン=ヌール。
この地で王座にまで至った、その目的は何だ」
「その前に」
被せるように、声が落ちる。
「名を名乗ろう」
一歩も動かないまま。
「カイス王には、その機会が与えられなかった」
わずかな間。
「名も、要求も」
視線が、微かに細まる。
「告げる前に、私は殺された」
自嘲とも、皮肉ともつかぬ笑み。
千年を越えた、事実の提示。
「私は、ハーリド・イヴン・アル=ハーリス。
信仰を不滅とする者」
不滅。
その語が、胸の奥に沈む。
再生ではない。
延命でもない。
信仰を、不滅とする。
「目的は、千年前と同じだ。
少女の血筋を探している」
淡々と続く。
心臓が、ひとつ遅れる。
「かつて城で匿われていた、幼い少女の」
「――!」
仕えていた、ではなく。
匿われていた。
そのような待遇は記憶の限り、一人しかいない。
――あの子ども。
砂漠を、ただ一人で越えた。
戦火の端緒。
琥珀の瞳。
名が、喉元まで浮かぶ。
呑み込め。
ここで揺らぐな。
この記憶は刃だ。
同時に、盾だ。
握り違えれば、こちらが裂ける。
顔を動かすな。
呼吸を均せ。
ハーリドは死なない。
だが、僕も殺されない。
双方に“制約”がある。
祭壇で得た情報は、
この場と現世を繋ぐ、唯一の綱だ。
表情を、凍らせろ。
静かに、問われる。
「貴方は、守ったのだろう?」
揺さぶりではない。
確認だった。
一拍。
「今も――守っているのか」




