王は、動かない
「……街で幻獣が暴れていると聞いた」
声は低く、よく通る。
抑揚はない。
それでも、石の祭壇に落ちた瞬間、
場の空気が一段沈んだ。
「この様子では――
すでに収まったようだな」
報告でも、確認でもない。
ただ事実を置く声音。
「はあ……っ」
呼吸が浅くなる。
いけない。
鼓動が速い。
指先が、わずかに冷える。
恐怖か。
違う。
これは――記憶だ。
血の匂い。
崩れ落ちる身体。
あの日の石床。
胸の奥で、千年前の光景が軋む。
――整えろ。
今この男にとっての僕は、何者でもない。
現世で魔術学園に通う、ただの学生だ。
揺らぎは、隙になる。
隙は、谷底へと続く。
ゆっくりと息を吸い、
ゆっくりと吐く。
「……」
男は動かない。
ただ、こちらを見ている。
千年前と同じ貌。
同じ白髪。
同じ、凪いだ瞳。
なぜ老いないのか。
なぜここにいるのか。
問うな。
今はまだ、問う位置にいない。
不用意な言葉は、
命ではなく――“知る機会”を失う。
それが、いちばん重い。
視界の端。
アミナとナディルが跪いている。
迷いはない。
敬意か、畏怖か。
いずれにせよ――
この男は、現世においても
高位の存在と見て間違いない。
……愚かだった。
アーイシャを蘇らせることに、
今世の時間を捧げすぎた。
外界を見なかった。
権力構造も、位階も、勢力図も。
情報が、空白だ。
それが、いま首を締める。
男は、視線を逸らさない。
射貫く、というより――
測っている。
「少年――」
わずかな間。
「と呼ぶには、
瞳の奥に、随分と重たいものを抱えている」
責めるでも、讃えるでもない。
観察。
「あえて、こう呼ぼう」
空気が、さらに静まる。
「青年よ」
一歩も動かぬまま、問いが落ちる。
「名は、なんという」
それは単なる名乗りではない。
――お前は何者だ。
そう問われている。
偽名か。
問い返すか。
それとも――王名を告げるか。
刹那、幾つもの未来が脳裏を過る。
だが。
「……イズヒト」
音は、思いのほか静かに落ちた。
その瞬間。
誰かが、息を呑む。
乾いた音が、祭壇の奥で小さく震えた。
男は瞬きひとつせず、頷く。
「ふむ」
わずかな沈黙。
「威厳か。
顕現か」
低く、測る声。
「どちらの重みを、与えられた名だ」
試す問いだ。
「さあ」
肩を竦める。
「両親に、由来を聞いたことはない。
だから分からない」
事実だ。
だが――半分だけ。
男は、わずかに目を細める。
「そうか」
視線が、僕を通り過ぎる。
「かつて覗いた瞳の色に、よく似ていてな」
天井を仰ぐ。
そこに何があるわけでもない。
ただ、遠い過去を見ている。
「……彼には、力で敵わなかった」
「……!」
血が逆流する。
アーイシャの最期。
崩れ落ちる身体。
赤く染まった石床。
そして――
正気を失った、僕。
記憶は霞んでいる。
だが、あの狂気の只中で。
この男を、生かしておく理由があっただろうか。
取り逃がす余地が、あっただろうか。
あり得ない。
ならば――
一体、何が起きた。
その刹那。
空気の綻びを縫うように、声が差し込む。
アミナだ。
わずかに、芝居がかった響き。
だが、意図的だ。
この場の位階を、明確にするための声音。
「――ハーリド・イブン・アル=ハーリス王」
名が落ちる。
重厚で、古い王朝の響き。
ハーリド。
イブン・アル=ハーリス。
王。
その敬称は。
僕にとって――
あまりにも、残酷だった。
王座は、失われたはずだった。
それでも――
まだ、胸のどこかに残っている。
だが。
目の前に立つこの男こそが、
現世の王。
つまり――
世界は、彼の側にある。
「……なぜ」
喉がわずかに軋む。
「なぜ、王自ら、このような場所に?」
アミナの問いを耳にしながら、理解する。
これは偶然ではない。
呼ばれたのは、僕ではなかった。
呼ばれたのは――
彼だ。
そして。
その場に、僕が“いた”。
ハーリド。
そう呼ばれた男は、感情の揺らぎを一切見せず、淡々と応じる。
「民の声を聞くのは、王として当然の務めだ」
声は低く、澄んでいる。
「魂葬使の職務が遂行されなければ、
迷える魂が浮かばれない」
正論だ。
王として。
為政者として。
そして、一人の人間として。
どこにも綻びはない。
だが――
この場で彼の素性を知るのは、僕だけだ。
あの白い髪に、返り血が跳ねた日のことを。
包み隠された残酷さを。
静かな瞳の奥に、底の見えない深淵があることを。
アミナは知らない。
あの日の出来事を。
僕がハーリドと対峙した瞬間を。
彼女は、その前に戦場で命を落とした。
だからこそ。
名も姿も千年前と変わらずとも、
この男を“敵”と疑う発想には至らない。
誰も気づかなかっただけだ。
世界は――
とうに、狂気の底へと傾いていた。
震える声が、夜気を裂く。
ナディルだ。
「ご、ごめんなさい……ハーリド王」
額が石床に触れるほど、深く頭を下げる。
「僕の連れる幻獣は、終末期でした。
だから、せめて最期の時間を、共に過ごしたくて……!」
恐怖が滲む。
職務放棄。
王の眼前での違反。
罰は、軽くはない。
「なるほど」
ハーリドは頷く。
「そうか」
それだけで、場の緊張がわずかに緩む。
「であれば、大目に見ないこともない」
赦し。
その言葉が落ちた瞬間、ナディルの肩が微かに震えた。
だが。
声が、一段低くなる。
「しかし――」
空気が変わる。
篝火の影が、揺れを止めたように見えた。
「君は、正式な騎手には見えないが」
静かな指摘。
断罪ではない。
ただの確認。
だが。
「……!」
ナディルの息が詰まる。
逃げ場はない。
怒号はない。
威圧もない。
それでも。
この男は、すべてを見ている。
肩の位置。
装具の不足。
立ち居振る舞い。
一瞥で、見抜いた。
王とは、そういう生き物だ。
そして――
彼は、試している。
ナディルを。
アミナを。
そして。
僕を。
「国より与えられた任を、
他者に譲ることは禁忌だ」
低い声が、石の祭壇に沈む。
一拍。
「国法に背くとは。
……分かっているだろうな」
その瞬間。
地の底から、魔力が滲み出る。
熱ではない。
圧。
空気が軋み、呼吸が重くなる。
視界の端に、紋が浮かび上がる。
灰に、斑の黒。
絡み合う曲線と、崩れかけた円環。
――混沌の魔術紋。
千年前に見たものと、同じ。
罰するための力か。
脅しの演出か。
分からない。
だが。
見過ごせば、ナディルは死ぬ。
「ハーリド王!」
声が、祭壇を裂く。
静寂が割れる。
ハーリドの視線が、ゆっくりとこちらへ向く。
「彼の正騎手である母は、
“胎の庇護”にありました」
言葉を選べ。
焦るな。
「しかし、幻獣が暴れ、
母を振り落とした」
一瞬、事実。
「ゆえに今は、大事を取っている」
ここまでは崩れない。
一拍。
「代わりに――」
胸の奥で、静かに詫びる。
幻獣。
許せ。
「職務を放棄した幻獣を、
今しがた、この少年自らが罰した」
言葉が落ちる。
空気が止まる。
「ほう」
感情のない相槌。
だが魔力の圧が、わずかに揺らぐ。
「ナディルが引き受けたのは、
職務ではない」
視線を逸らさない。
「責任だ」
静かな宣言。
ハーリドが、近づく。
一歩。
影が重なる。
その瞳が、僕の奥底を覗き込む。
冷たい。
だが、それ以上に――深い。
測っている。
虚か、真か。
利か、義か。
やがて。
短く、息を吐く。
「……なるほど」
魔術紋が、ゆっくりと薄れていく。
「先ほど外へ漏れ出ていた光は」
わずかな沈黙。
「幻獣が、命で罪を償った残照であったか」
問いではない。
確認でもない。
受理。
それだけだ。
だが。
その瞬間。
僕は理解する。
この男は、信じたのではない。
――見逃したのだ。
言葉は法。
魔力は判決。
僕は今――
虚構で法を上書きしたに過ぎない。
ハーリドは、それに対等に応じただけだ。
王として。
「命の灯火であったなら――よい」
淡々と告げる。
「魂葬使が、許可なく
他者の記憶を差し出した光でないのなら、な」
「――!」
背筋が凍る。
幻獣が、魂の記憶を捧げられる相手。
それは――王族のみ。
つまり。
彼は最初から、その可能性を排除していない。
疑っていたのは、ナディルではない。
最初から。
僕だ。
静寂。
篝火が、ぱちりと弾ける。
ハーリドの視線が、揺らがぬまま刺さる。
その瞳にあるのは怒りではない。
確認。
同類か否かの。
「……見事な応酬だ」
静かに、確信を以て告げる。
「カイス・イブン・アル=ウラキウス王」
世界が、止まる。
その名は。
千年前に失われたはずの王名。
どうして。
いや――違う。
どうしてではない。
この男なら、辿り着く。
辿り着いてしまう。
だからこそ。
今、ここで。
「アミナぁあ!」
叫ぶ。
激情ではない。
決断だ。
「ナディルを連れて逃げろ!」
喉の奥が焼ける。
肺が裂ける。
「こいつは――」
千年前の血が、蘇る。
「アーイシャを殺した!」
足が、自然と一歩前へ出る。
退路を塞ぐために。
「僕たちの“敵”だああ!」
ハーリドは、動かない。
ただ、静かに――
その宣言を受け止めていた。




