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記憶の頁をめくって――【Ⅲ】


 綺麗な目――

 そう言われただけで、胸の奥がかすかに揺れた。


「どんな色をしているんだい?」


 問いは軽く放ったつもりだった。


「街と同じ色をしています」


 街と同じ。


 砂か。

 水路を走る青か。

 夜の市を照らす灯りの色か。


 いずれにせよ、それは――

 僕が守るべきものの色だ。


 わずかに思案を巡らせると、少女は補足するように続けた。


「温かな祈りの色です」


 呼吸が、一拍遅れた。


 祈りの色。

 それを、僕の瞳に重ねるというのか。


 その瞬間、少女が初めて口許を綻ばせた。

 柔らかな、しかしどこか透き通った笑みだった。


 あまり、心を傾けるべきではない。


 僕は王だ。

 一人の子どもの言葉に揺らぎ、その判断を曇らせるわけにはいかない。

 

「……そうか」


 それだけを告げる。

 賞賛も、否定もせず。


 視線をカーディルに戻した。


「……この子に、身寄りの者はいないのか?」


 カーディルは感情を挟まず、事実だけを積み上げる。


「ない。

 両親は交易商だった。

 隣国を渡り続け、この街には一時滞在していただけだ」


 一拍。


「どの国に属していたのか、それさえ曖昧だ」


 属する国の曖昧さは、すなわち保護の曖昧さだ。

 親戚も、引き取り手もいない。


 ならば――。


「この子を拾った教会はどうだ」


「残念だけど」


 前置きのあと、声がわずかに低くなる。


「まもなく戦が始まる。

 怪我人は増え、病床は埋まる。

 食糧の確保も厳しくなるだろう。

 その中で、新たに子どもを抱える余裕はない」


 避けられない現実だった。


 たかが一人。

 その言葉が、喉元までせり上がる。


 だが、吐き出せば何かが決定的に損なわれる気がした。

 王である以前に、人として。


 国はすでに開戦の準備に入っている。

 民の避難経路。

 兵糧の積算。

 物資の封緘ふうかん


 兵糧一袋の重さ。

 兵士一人の損耗。


 だが、子ども一人は――

 それらと同じ秤には載せられない。


 だからこそ、最初から許可を求められているのではなかった。


 求められているのは、慈悲でもなく。

 判断だ。


 この子を、

 国の内に置くのか。


 それとも――。

 

「ふむ……」


 浅く息を吐く。

 思案の形だけを整え、内側の揺れは伏せる。


「カーディル。

 君の意見を聞こう」


 即答だった。


「難民区の共同体に編入するのはどうだろう」


 思案の間はない。

 すでに結論は持っていたのだろう。

 感情ではなく、構造として。


「難民区か……」


 市場や神殿の所属とし、労働力として受け入れる。

 名目は“保護”ではない。

 “役割の付与”だ。


 働き手として数えられるなら、

 食糧も寝床も正当に割り当てられる。


 情ではなく、秩序の内側に置く。


 合理的だ。


 静かに頷く。

 だが、まだ決めない。


 この問いは、秩序の裁定者にも向けるべきだ。


「アミナ」


 名を呼ぶ。


「はい。カイス様」


 一歩退き、成り行きを見守っていた彼女が応じる。


「君の考えも聞こう」


 喉が小さく鳴る音がした。

 緊張を飲み込む音だ。


 視線が、僕へ。

 カーディルへ。

 そして少女へ。


 短い沈黙。


 やがて、意を決した。


「恐れながら。

 城で保護なさってはいかがでしょうか」


 空気がわずかに張る。


 カーディルの眉が吊り上がる。

 否定の言葉が、今にも放たれそうだ。


「……聞こう」


 先に制する。


 感情の衝突は、まだ早い。


「寛大な御心に感謝いたします。

 彼女は敵国から生きて帰られた、奇跡の少女です」


 奇跡。


 その言葉が、場の温度を変える。


「それは民にとっての“象徴”となり得ましょう。

 『守るべき存在』を掲げることで、

 不安に揺れる民心を、ひとつに束ねられるかと存じます」


 守るべき存在。


 戦を前に、人は理由を欲する。

 剣を握る理由を。

 耐える理由を。


 象徴は、力になる。


 だが――


 象徴は、刃にもなる。


 語気を強めたのは、カーディルだった。


「駄目だ、アミナ」


 即断。


「象徴にするということは、この子だけを城に迎え、特別に扱うということだ。

 孤児は他にもいる。数え切れないほどに」


 一拍。


「君は例外だった。

 戦う力を持っていたからこそ、カイス様が立場を与えたに過ぎない」


 空気が張る。


「よせ、カーディル」


 低く制する。


「僕はアミナを利用するために迎えたのではない。

 あの時とは状況が違う」


 偽りでも、建前でもない。


 かつてアミナを城へ迎え入れたのは、

 国がまだ張り詰めていなかったからだ。


 豊かさを守るため。

 民に“知る”機会を与えるため。

 当時“悪鬼”とまで呼ばれ、忌避されていた彼女を、

 あえて城に置いた。


 今『裁定者』として役割を担っているのは、

 彼女が思いのほか賢く、

 魔術師としての才を備えていたからだ。


 それは結果論だ。

 計算ではない。


「カイス」


 敬称が落ちる。


「ならば、なおのことだ。

 宮殿にもこの子を養う余地はない。

 臣下たちの信用にも関わる」


 理ではなく、焦燥が滲んでいた。


 彼は王の友であり、

 同時に王権の防波堤でもある。


「カーディル」


 声を細く、鋭くする。


「今は政治の場だ。

 立場を弁えろ」


 一瞬。


 空気が、凍る。


 カーディルはそこでようやく息を飲んだ。


「……申し訳ありません。

 カイス王」


 友ではなく、臣下の声だった。


 感情に任せて判断してはならない。


 アミナもまた、かつて孤児だった。

 だが提案は、同情から出たものではないはずだ。


 これは――


 カーディルの示す現実的秩序か。

 アミナの示す戦時の象徴か。


 政治と信仰が、真正面から噛み合っている。


 意見を求めたのは僕だ。

 ならば、それを火種にしてはならない。


 必要なのは――

 迷いのない決断。


 ゆっくりと息を吐く。


「アミナ。

 臣下たちにも告げろ」


 一拍。


「この子は、城で保護する」


「「――!」」


 落ち着いた空気のまま、

 しかし確実に、僕の正気を疑う気配が広がる。


「カイス王。

 キミはアミナに甘過ぎる。

 今は、子どもに優しさを振りまく場面ではない」


「分かっている」


 即答する。


「僕は君の案を退けたのでも、

 アミナの案を採ったのでもない」


 寄りかかったのではない。

 選んだのだ。


「カーディル。

 君の判断は秩序に基づく。

 合理的で、理解しやすい」


「なら……!」


「だが、それは秩序が正しく機能している場合の話だ」


 視線を少女へ落とす。


「この子は、戦争のきっかけに利用された子だ」


 静かに続ける。


「痛みを望み、血を欲する人間は多くない。

 だからこそ、怒りの行き場を求める」


 難民区へ送ればどうなる。


 責めやすい標的になる。

 あるいは、守ろうとする者が現れ、対立が生まれる。


 善意も、憎悪も、同じ火種だ。


「歴史から観測した結果だ」


 結論だけを置く。


「内乱になる」


 責任を目に見えない場所へ預けても、

 火は消えない。


「同時に――」


 今度はアミナを見る。


「象徴にするという案も、成立しない」


 奇跡は、常に祝福として受け取られるとは限らない。


「アミナ。分かるか?」


 短い沈黙。


「……彼女が生きていること自体が、

 “戦争の象徴”にもなり得るから、でしょうか」


「そうだ。

 だから、この子の存在は大きく公表しない」


 一拍。


「城内と、僕の忠臣だけに留める」


「カイス王。

 だが、やはり城にもそんな余裕は――」


「カーディル」


 低く、名を呼ぶ。


「幸い、僕とアーイシャにはまだ子がいない。

 今、彼女が世継ぎを授かったとして――

 同じことを言えるかい?」


「……」


 少し、意地の悪い問いだ。


 立場も、後継という意味も、まるで別の話。

 だが――


 本当に、誰一人受け入れられないほど、逼迫しているわけではあるまい。


 都合よく、現状を引き合いに出した。

 それは自覚している。


「沈黙は肯定として捉えるが、

 構わないか?」


「……はあ」


 大きな溜め息。


 呆れは滲んでいるが、反意はない。

 臣下としての線は、越えていない。


「君の子どもは、きっと捻くれ者だろうね」


 彼なりの最大限の皮肉だ。


 わずかに、口元が緩む。


「分かったよ。

 では、戦争が終わるまでの間、城でこの子を匿う。

 名目は?」


「商人として、比類なき才を見出した少女を

 城で学ばせている――ということにしよう」


「皆、納得するかな」


「実際に学ばせるつもりだ」


 この部屋を使わせる。


「いつか、この国に利益をもたらせるように」


 少女を見る。


 商人だった両親の背を、

 きっとずっと見てきたはずだ。


 交渉。

 言葉の選び方。

 人の機微。


 それらは、剣よりも強い。


 ただ城に“置く”つもりはない。


 同情は、永くは続かない。

 施しは、やがて重荷になる。


 ならば。


 戦争の後も、自分の足で立てるように。

 知恵を、持たせる。


 そう願い、再び少女の前に跪く。


「文字は、読めるかい?」


 傍らの机から、自分の書いた本を取る。

 頁をゆっくり捲って見せると、少女は小さく首を振った。


「分からない」


「……そうか」


 わずかに息を吐く。


「文字のいらない本を書いておくべきだったな」


 絵だけで語る物語。

 今からでも遅くはない。


 ――僕の後継者の役に立つ日が来るかもしれない。


 自嘲とも、願いともつかぬ笑みが零れる。


「まあ、急がなくていい。

 ゆっくり覚えればいいさ」


 本を閉じる。


「君、名前は?」


 少女は澄んだ琥珀の瞳で、まっすぐに僕を映した。

 逃げもせず、怯えもせず。


「クァリーン」


 柔らかく、どこか神秘的な響きだった。


「“寄り添う者”か。

 良い名だ」


 その手を取る。

 小さく、だが温かい。


「本は好きに読んでいい。

 分からないことがあれば、カーディルかアミナを頼るといい」


 他にも、いくつか言葉を交わしたはずだ。


 だが――


 不意に、視界が白む。


 輪郭が、ほどけていく。


 過去から、引き剥がされる感覚。


 幻獣ライヒに呼ばれるときの静かな浮遊ではない。


 もっと、粗暴で――

 拒む余地もなく、掴み上げられるような力。


 アミナか。

 それともナディルか。


 *


「――!」


 意識が断ち切られる。


 夜気を孕んだ、冷たい石の祭壇。


 外の篝火が、揺れ、

 長い影が足元に絡みつく。


「……戻ったのか」


 掠れた声が落ちる。


 肩に、手。


 大きく、岩のように硬い掌。


 ゆっくりと振り向く。


 視界の端に、アミナとナディル。


 深く頭を垂れ、跪いている。


 僕にではない。


 ――では、誰に。


「……っ」


 心臓が一度、強く打つ。


 視線を上げる。


 目の前に、男が立っていた。


 白髪。


 静かな目。


 千年前。

 ただ一人で王の前に現れ、


 アーイシャを――殺した男。


 時の流れを拒んだかのように、

 当時と寸分違わぬ姿で。


 そこに。


 立っている。

 

 

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