記憶の頁をめくって――【Ⅱ】
厳かな装飾の施された扉を押し開ける。
――王の書斎。
ここは、国のための部屋ではない。
前世の僕が、王である前に「一人の人間」として集めたものが、
無秩序に息づく場所だ。
棚には、友が彫った架空の神々。
机には、書きかけの歴史書。
そして、その合間に――
臣下に無駄なちょっかいを出した痕跡だけが、やけに多く残っている。
どうやら当時の僕は、
権威よりも距離の近さを好む王だったらしい。
「カーディル」
友であり、右腕の名を呼ぶ。
「待たせたね。
女神に後ろ髪……いや――
睾丸を掴まれていたところだ」
――我ながら、品性の欠片もない言い訳だ。
書斎の中央に立つ男は、細身で背が高い。
砂原に生える、養分の足りない樹木のような体躯。
片眼には、遠方の文字すら拾うという片眼鏡の魔道具。
カーディル・アル=サフィール。
知性と忍耐で、僕の軽率さを均衡させてきた男だ。
彼は額に指を当て、短く息を吐いた。
「カイス様……
またアミナに悪戯をしたのでしょう?」
責めるでもなく、問い質すでもない。
ただ“察している”声。
「キミは仮にも国王なんだ。
目立って幼稚な振る舞いは、控えてもらえると助かる」
――やれやれ、という感情が、言葉の端に滲んでいる。
「仮とはなんだ。
失礼なやつめ」
この男の不敬が罪に問われぬのは、
無礼だからではない。
常に、事実しか口にしないからだ。
カーディルとは、幼少より机を並べ、剣を振り、
互いに踏み台となって、ここまで登ってきた。
形式上、彼は国で二番目の座にある。
だが実際のところ、
権威の重さに、僕との差はない。
僕は――民に示される“象徴”としての王。
彼は――その裏で、金と情報と現実を束ねる者。
国を支える右腕であり、
同時に、僕の思考が折れぬための支柱でもある。
親友、という言葉では足りない存在だ。
「それで、カーディル。
この子が、例の孤児かい?」
「うん。
あの交易商夫妻の、忘れ形見だ」
一拍。
「七日前、砂漠から――生きて帰ってきた」
視線を落とす。
床に、へたり込むように座る子どもがいた。
長く、手入れされていない茶色の髪。
砂と日差しに晒された白い肌。
骨と皮だけが辛うじて形を保ち、
顔は伏せられ、性別すら判然としない。
だが――
「どうやって、生きて帰ってきた……?」
「分からない」
カーディルは即座に言い切った。
「教会の裏手で倒れているところを、神父が見つけた。
容態は最悪だ。
丸腰、所持品なし。
深刻な脱水症状と、両足の裏には重度の火傷」
当然だろう。
昼の砂は、素足を拒む。
熱を孕み、踏み入れる者に罰を与える。
そして夜は、逆に熱を奪う。
冷たい刃となり、別の裁きを下す。
「治癒魔術で生き延びたとしても……奇跡だな」
「それがね」
カーディルは、わずかに言葉を選んだ。
「本当に、奇跡としか言いようがない」
「……なに?」
眉をひそめる彼は、
理解しがたい事実を、順に並べるための沈黙を置く。
「発見されたのは、真夜中だ。
治癒術士を呼ぶにも、どうしても時間がかかる」
淡々と、事実だけを積み上げる。
「その間、この子は一人、
神像の前で膝を折り――
ただ、祈り続けていたらしい」
「ほう」
「それだけだ。
本当に、それだけで――」
僅かな間。
「治癒術士が到着した頃には、
火傷も、傷ついた皮膚も、
すべて完全に癒えていた」
「そんな馬鹿な話があるか!」
思わず声を荒げる。
視界の端で、子どもの身体がびくりと跳ねたのを見て、
僕は言葉の高さを抑えた。
「……祈りは、魂を支えるものだ」
自分に言い聞かせるように、続ける。
「施しが、
目に見える形で与えられるものではない」
それが事実であるなら、
もはや奇跡という枠には収まらない。
神の力を、
その手で扱う――
そんな領域に、踏み込んでいる。
だが、
この子どもが砂漠を踏み越え、
ただ一人生きて帰ったという現実を、
どう処理すればいい。
暇を持て余した神々が、
気まぐれに恩寵を与えた。
そう考えた方が、
まだ、理解の外に置ける。
理由を得るための問いを投げる。
「交易商の夫婦は、
優れた魔術師だったのか?」
「いや。
何度か顔を合わせたことはあるけど、
そんな話は聞いたことがない」
「この子どもが、
そもそも砂漠から帰ってきたという話自体が――」
言葉を、飲み込む。
この子を前にして、
口にしていい疑念ではなかった。
僕は、ただ。
簡単には、認められなかっただけだ。
経緯がすべて事実なら、
この子は――
想像に耐えない痛みと、
苦しみの中を、生き抜いてきたはずだ。
カーディルから視線を外し、
一つ、深く息を吐く。
僕は歩み寄り、
ゆっくりと跪いた。
「冷静ではなかった。
許してほしい」
頬に、手を添える。
痩せた頬骨の奥に、
確かな体温があった。
亡霊でも、幻でもない。
――ここに、生きている。
その時、初めて。
子どもは声を震わせた。
そして、ようやく知る。
この子が、女の子であることを。
「カイス様。
綺麗な目をしているのね」
「……え」
笑顔はなかった。
ただ、そこにある琥珀色の瞳に、
僕の言葉は吸い込まれ――
溶けて、消えた。




