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記憶の頁をめくって――


「……なぜ、これほどの出来事を

 僕は、忘れていた……?」


 零れ落ちた独白は、祭壇の奥へと沈み、

 石に触れることすらなく、消えた。


 ――思い出した。

 確かに、そういう感覚がある。


 アーイシャを戦場で失ったという記憶は、

 今しがた作られた幻ではない。

 それは、僕の生涯に刻まれていた“経験”だった。


 だというのに。


 疑念は、晴れるどころか、深まっていく。


 正しい歴史に触れたはずなのに、

 アーイシャが病で死んだという記憶は、

 いまなお、明確な輪郭を保ったまま、僕の中に在り続けている。


 消えるべきはずの偽りが、消えない。

 それどころか――


 最期に至るまでの、

 彼女と過ごした日々だけが、

 不自然なほど、鮮やかさを増していく。


 弱ったアーイシャの身体を背負い、

 庭の花を、共に眺めたこと。


 僕の書いた本が好きだと言う彼女のために、

 その傍らで、声に出して読んでやったこと。


 静かで、穏やかで、

 戦火など存在しなかったかのような日々。


 それらは、

 「なかった」と切り捨てるには、

 あまりにも、確かな手触りを持っていた。


 これは――

 一体、どう説明すればいい。


 正しい記憶と、

 愛した時間が、

 同時に存在している、この矛盾を。


 ――頭が、痛い。


幻獣ライヒ……

 こんな姿を見せてしまって、すまない――」


「……」


 幻獣ライヒは、何も答えなかった。

 今にも霧散してしまいそうなその身体を、

 かすかに、震わせるだけだ。


 言葉はない。

 けれど、その視線には――

 咎めも、拒絶も、存在しなかった。


 ただ、

 労るように。

 あるいは、抗いようのないものを前にした者を

 静かに憐れむように。


 そうして、やがて――


 幻獣ライヒは、僕の胸元へと身を寄せ、

 額を、そっと当てた。


 触れたはずの感触は、

 次の瞬間には霧へと変わり、

 祭壇を満たす空気の中へ、音もなく溶けていく。


 ……寿命、なのだろう。


 礼を言うつもりだった。

 感謝を伝える言葉も、確かに用意していた。


 だが、それよりも早く――

 僕の身体は、再び淡い光に包まれる。


幻獣ライヒ……?」


 視線が、重なる。


 相変わらず、彼は何も語らない。

 ただ――

 何かを、受け取れと告げるような、

 静かな眼差しだけが、そこにあった。


 胸の奥が、ざわつく。


 また、いつかの記憶が与えられる。

 あるいは、

 忘れていたはずの“真実”が――


 そんな予感だけが、

 確かな重さを持って、心臓の裏に残った。

 

 *


「カイス様?

 ……その、生きておられますか……?」


「え――」


 恐る恐る投げかけられたその声に、

 懐かしさは、なかった。


 感情の起伏に乏しい、淡々とした響き。

 砂漠の奥で眠る鉱石のような、赤い瞳――。


「アミナ……なのか」


「はい。

 アミナ・ビント・ヌリーヤでございます。

 申し訳ございません」


 そう名乗ってから、彼女は一度、深く頭を下げた。

 そして、一拍。


「……やりすぎてしまいました」


 ――イクト・アミナ、とは名乗らなかった。

 告げられたのは、千年前の臣下としての名。


 過去の記憶であることは、疑いようがない。

 だが――


 匂いがある。

 温度がある。

 床の冷たさも、衣擦れの感触も、あまりに生々しい。


 記録を覗いているのではない。

 追体験――いや。


 これは、誰かの記憶ではない。

 他ならぬ、僕自身の過去だ。


 ……だが。


 なぜ、僕は床に伏している?

 そして、この――

 下半身を貫く、強烈な鈍痛は何だ。


「……すまない」


 息を整えながら、絞り出す。


「内臓が弾けるような痛みで、記憶が混濁している。

 少し、整理させてくれ」


 一拍置いて、問う。


「僕は、今――

 臨終を迎えようとしているのか……?」


「いいえ」


 アミナは、即答した。

 感情を挟まず、事実だけを積み上げる声。


「カイス様と、他愛のない談笑をしておりました。

 その中で、私が本日、十八の歳を迎えたと――

 ご報告を差し上げました」


「それは、

 僕の睾丸が破裂する呪文なのか?」


 アミナは、静かに目を伏せる。


 千年前の出来事だ。

 僕は、何も思い出せない。


 アミナが、十八。

 時期としては――

 隣国との戦争が、始まろうとしていた頃だ。


 彼女が、そこで命を落とすことも。

 その戦争が、

 『|千日の炎《アル・ナール・アル=ミル》』と呼ばれるほど

 激化することも。


 この時の彼女は、まだ知らない。


「カイス様は、私の成長を感慨深く眺めておられました。

 そして――」


 淡々と、続ける。


「昔と同じように、

 唐突に背後から迫り、

 私を、肩に担ぎ上げたのです」


「……ふむ」


「その上で、仰いました」


 一拍。


「このまま、城中を走り回っちゃおうかな――と」


 ――なるほど。


 つまり、愚かな王は。

 どうしても、愛する臣下の誕生日を、

 肩車という最も原始的かつ危険な方法で

 盛大に祝いたかったらしい。


 なんという命知らず。

 そして――

 なんという、デリカシーの欠如。

 

 軽薄な行動の代償が、

 今しがた、ようやく精算されたのだろう。


 思い返せば、

 こんな出来事も、確かに過去にあった。


 幻獣ライヒは、

 僕の間抜けさを改めて思い知らせるために、

 この瞬間を、わざわざ追体験させている――

 そんな気がしてならない。


 やはり、あの馬。

 来世では、刺し身になる記憶でも欲しているのだろう。


 内心に、自嘲と怒りを滲ませていると、

 アミナが僕の身体に治癒の光を当てながら、静かに問うた。


「……それで、カイス様は

 どう、なさるおつもりでしょうか」


「痴漢行為に、

 どう落とし前をつけるかって?」


「違います」


 即座に否定される。


「先ほどから、ずっとお話して、

 ご判断を仰いでいたではありませんか」


 意識がはっきりした途端、

 僕は変態上司として床に転がっていたのだから、

 それまでに、どんな会話が交わされていたかなど、

 知る由もない。


 だが――

 無理に思い出す必要はなかった。


 アミナは、迷いのない口調で告げる。


「孤児となった、

 例の子どもの件です」


「――!」


 そうだ。


 今、はっきりと思い出した。


 この国で、交易商を営んでいた夫婦がいた。

 隣国国境付近で水を汲んだだけで、

 略奪者と断じられ、惨殺された者たち。


 ――『|千日の炎《アル・ナール・アル=ミル》』の、引き金。


 子どもだけは、宗教的理由から、

 直接手を下されることはなかった。


 代わりに――

 砂漠へ、何一つ持たされぬまま、放り出された。


 ある意味では、

 首を刎ねるよりも、

 遥かに残酷な所業だっただろう。


 だが、子どもは生きていた。


 生き延びて、

 ナフリーラトゥ・ン=ヌールへと帰ってきた。


 そして今。


 その者を、

 どう扱うべきか。


 僕は――

 王としての判断を、

 委ねられていたのだった。


 今に至るまで忘れていたのは、

 決して、記憶の欠落ではない。


 僕にとって――

 特別な分岐点にもならず、

 あまりに些細で、

 生きる営みの中で、自然と風化したに過ぎない。


 それだけのことだ。


「……その件か」


 呟いてから、

 言葉を続ける。


「これから、その子と顔を合わせる。

 地獄を渡り歩き、

 それでもこの街を帰るべき場所と信じたのだ。

 粗末な扱いは、許さない」


「はっ。

 皆にも、そのように」


 跪くアミナへ、

 僕は穏やかに問いを投げた。


「……どこに迎えれば、良いかな」


「カーディル様が、

 王の書斎にてお待ちだと、仰せでございました」


 カーディル。

 僕の友であり、

 右腕とも言える存在。


 ――さて。


 これから僕は、

 一人の孤児に、会いに行く。


 この時代、

 孤児など珍しくもなく、

 特別に哀れむ必要も、ない。


 だからこそ――

 このときの僕の選択も、

 とりわけ重大なものでは、なかったのだろう。


 幻獣ライヒは、

 一体、

 何を思い出させようとしているのか――。

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