約束された死
「静謁の間まで、
侵入を許すとはな……」
その声は、
戦の渦中にあるとは思えないほど、静かだった。
怒りも、焦りもない。
ただ事実を確認するような、低い響き。
「カーディルの奴は、何をしている」
懐かしい友の名が、
記憶の底から引き上げられる。
カーディル・アル=サフィール。
『為す力を持つ書簡官』。
僕の右腕であり、
この戦の指揮を、すべて任せた男だ。
彼がいる限り、
王と王妃の玉座へ、
招かざる者が辿り着くはずがない。
――にもかかわらず。
静謁の間には、
ただ一人の影が立っていた。
白い頭髪。
歳は、五十に近いか。
戦装布で顔の半分を覆い、
露わになった肌には、
無数の切り傷と、火傷の痕。
装いではない。
それは、生き延びた結果だった。
まるで、
地獄の底を踏み抜き、
なお歩いてきた者のような威圧がある。
それでも、男の声は低く、落ち着いていた。
「カイス・イブン・アル=ウラキウス王」
名を、正確に告げられる。
「噂通りだ。
生と死の境を、知り尽くした眼をしている」
一拍。
「王というより――
神秘、そのものだな」
男は、わずかに頭を下げた。
「名を名乗る前に、
沈黙を捧げよう」
「その必要はない」
遮った声は、淡々としていた。
感情も、
体温も削ぎ落とされている。
ただ、裁定を落とすだけの声。
臣下たちへと告げる。
「殺せ」
その一つの命礼で、
空間は一斉に、魔術名を吐き出した。
引き裂くような風の刃。
喉を焼き切る炎の柱。
対象を正確に穿つ、無数の光の槍。
情けも、躊躇もない。
ただ殺すためだけに洗練された、暴力の雨。
視界は、それで埋め尽くされた。
――だが。
「……ふむ」
僕は玉座に深く腰を下ろしたまま、
わずかに首を傾げていた。
動揺ではない。
恐怖でもない。
ただ、
思いがけないものを目にした時の、
純粋な興味の色が、そこにはあった。
魔術は、確かに侵入者を捉えた。
間違いなく、致死の領域に届いている。
それでも――
巻き上がる黒煙の向こうから、
男は、何事もなかったかのように歩み出てくる。
無傷だった。
そして、
死んでいたのは、魔術を行使した側だ。
流血や苦悶の痕は、
残されていなかった。
まるで、
魂だけを、正確に引き抜かれたような死に方。
「呪い……いや」
思考を、言葉に落とす。
「即死魔術の類か。
僕以外にも、使いこなせる者がいるとはね」
男は、面白がるように口角を上げた。
「カイス王に謁見する以上、
それなりの見せ物が必要かと思ってね」
一拍。
「お気に召したかな?」
「ほう」
短く、そう返す。
その間にも、
男は一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
血の気配を纏わない足取りで、
まるで――
最初から、ここに立つ資格があるかのように。
敵か。
それとも――
対等な異端か。
僕は、どこか試すような口ぶりで、
言葉を継いだ。
「無傷の理屈が、まるで分からん。
魔術が無意味だというなら――」
床を、軽く踏み鳴らす。
「剣術は、どうかな」
瞬間、
空気に溶け潜んでいた四つの剣が、
空間を裂いて現れた。
卓越した暗殺術を持つ、僕の兵士たち。
音もなく現れ、
歩みを止めぬ男の、
確かな虚を突いた――
そのはずだった。
瞬き一つ。
それが、
振るい落とされた剣を奪い取るまでに要した時間。
次の瞬間には、
息を呑む間も与えぬ速さで、
まるで、
殺気の継ぎ目を解いていくかのように、
順に、臣下たちの身体が刻まれていった。
「……」
降り注ぐ血飛沫の中、
差し出されるのは不敵な笑み。
男は――
またしても、無傷だった。
そこでようやく、
僕は目を見開いた。
そして、理解する。
――この者は、生かしておいてはならない。
「アーイシャ」
隣に座す、
最愛の名を呼ぶ。
「……はい」
その返事は、かすかに震えていた。
目にしたことのない、
明確な『敵』。
その存在が、
彼女の胸に、恐怖として滲んだのだろう。
僕は玉座から立ち上がり、
宥めるように、穏やかに告げた。
「大丈夫だよ。
君は――
僕が死んでも、守るから」
「カイス様。
あの者、なにやら不吉の気配を纏っておいでです」
「ならば」
一拍。
「その不吉ごと――
僕が、殺してしまおう」
ゆっくりと、足を進める。
敵の元へ。
「カイス・イブン・アル=ウラキウスの名の下に、
お前の死は――約束された」
「ようやく、その気になったようで嬉しいよ。
最強の魔術師」
狂気と昂揚を宿した瞳が、
鋭く、愉悦に歪む。
「まずは、挨拶代わりに――
破壊の術式を」
口から溢れ出す、不穏な韻。
集う魔力が空間を歪め、
城そのものを軋ませるほどの、地鳴りを生んだ。
その詠唱は、
一城を容易く沈める――
星刻級の魔術。
これほどの力が解き放たれれば、
惨状は、避けられない。
だが。
動じる理由は、ない。
僕は、片手を挙げ――
指先をひとつ、軽く弾いた。
「――っ!」
硝子細工が砕け散るような、乾いた破砕音。
浮かび上がった混沌の魔術紋は、
意味を失った図形となり、
あっけなく崩れ落ちた。
「……馬鹿な。
魔術もなしに、これほど容易く――」
「考えが、軽薄だよ」
一歩、踏み出す。
「僕を殺したければ、
指を弾く隙すら、与えるな――」
魔力を、燃やし上げる。
「――無詠唱で、世界を滅ぼせ」
ゆっくりと歩み寄り、
男の胸元へ、指先を二本、添える。
触れているだけだ。
力を込める必要すら、ない。
そして――
焦熱の魔術名を告げた。
「【庭園葬送】」
指先から放たれたのは、
溶岩を暴力的に圧縮したかのような、劫火の熱線。
燃え盛る熱風は空気を歪ませ、
擦り合わされた大気が、
黒い稲妻となって周囲を裂いた。
――あえて、詠唱を破棄した。
完全な形で禁秘級魔術を顕現させれば、
この王宮は、瓦礫すら残さず消し飛ぶ。
慢心ではない。
事実として、
ただ一人の人間を葬るには――
これで、過剰なほどだ。
魔術を受けた男の胸部には、
容赦のない風穴が穿たれ、
焼き切られた輪郭だけが、
炎の環となって残った。
身体は、ゆらりと傾き――
音もなく、背後へ倒れ込む。
確認するまでもない。
殺した。
心臓どころか、
その延長線上にあった扉にまで、
熱線は、貫通の痕を残している。
――その命で、
扉を破壊した罪を、償った。
そう、解釈してやろう。
「アーイシャ。
終わったよ」
「はい。
お見事でございました」
胸を撫で下ろす彼女の様子が、
ひどく愛おしくて――
自然と、笑みが零れた。
だが、すぐに駆け寄るわけにはいかない。
まずは、床に伏す臣下たちの元へ歩み寄り、
静かに、跪く。
抱き上げた身体は、
すでに冷たく、重い。
「……すまない」
低く、言葉を落とす。
「敵の思考も、手の内も読めず、
君たちの命を――使わせてもらった」
簡素な、祈りを捧げる。
「その魂が、
迷わず、空へ還りますように」
そして、背後から――
慎み深い声が、続いた。
「静かな場所で、休めますように。
守られてばかりで……ごめんなさい」
「アーイシャ……」
振り向くと、
彼女は、声を乱すことなく涙を流していた。
戦う力を持たず、
ただ民を憂うことしかできない自身を、
静かに責めている――
そんな涙だった。
「君の祈りがあるなら、
彼らの選択は、きっと後悔のないものになっただろう」
「……そうでしょうか」
小さく、首を振る。
「私に出来ることは、何も――
戦火は、彼らに墓を用意する間すら、与えてくれません」
「ああ」
争いは、愚かだ。
免罪符としての正義など、存在しない。
いかなる理由があれど、
正しさを奪い合ってはならない。
だから――
「せめて、僕たちの胸に。
彼らの名を、やさしく残そう」
沈黙が、降りる。
やがて、
その言葉を胸の内で噛み砕いてから、
アーイシャは、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
目を閉じ――祈る。
命を賭して、
王を守り抜いた者たちの名を、
決して忘れぬように。
――その、瞬間だった。
鈍く、湿った音。
肉を裂くというより、
身体の奥深くへ沈み込むような、
理解を拒む音。
僕ではない。
反射的に、振り返る。
声が、
輪郭を失い、
裏返り、
それでも――はっきりとした。
「アーイシャあああああっ!」
剣は、
彼女の背後から、
心臓を――正確に貫いていた。
胸元から突き出た切っ先には、
禍々しい魔力が宿り、
脈打つように、蠢いている。
理解が追いつくより先に、
それは粗雑に引き抜かれた。
アーイシャの身体は、
邪魔な物を払い除けるように、
床へと投げ出される。
僕は、
視線を彼女から外せないまま――
這うように、駆け寄った。
「アーイシャ……
アーイシャ……!」
声が、震える。
「待ってろ。
今すぐ――今すぐ、僕が治してやる……!」
持ちうる限りの治癒魔術を、重ねて注ぎ込む。
手元は確かに、癒しの光を放っている。
――それでも。
傷は、塞がらない。
溢れ出る血も、止まらない。
正しく行使されたはずの奇跡が、
現実に一切の影響を与えていない。
理解の及ばぬ状況に、
声だけが、かすれて震えた。
「アーイシャ……」
その必死さを、
愉しむような低い声が、背後に落ちる。
「無駄だよ、カイス王」
「――!」
ようやく、視線を向ける。
喉から、戸惑いが零れ落ちた。
「……どういうことだ」
「剣に、呪いの術式を与えた。
その致命傷は、癒されることはない」
一拍。
「死は――約束されたのだよ」
「違う……!」
声が、裏返る。
「何故だ……!
何故、お前が……
お前が、生きている!」
眼前に立つのは、
先ほど、確かに殺した白髪の男。
胸部に穿たれた大穴。
生存の余地など、欠片も残さなかったはずだ。
それなのに――
「……どうして……」
焼き尽くされた痕は、確かにそこにある。
だが、その中心で、
心臓は――緩慢に、脈を打っていた。
男は、ただ事実を述べるように言った。
「私は、死を拒絶した。
それだけだよ」
「……は?」
「理解してもらおうとは思わない。
理解できるとも、思えない」
だから、と。
静かに、続ける。
「カイス王。
貴方にはただ――
私の要求を、聞いて頂きたい」
「……応じれば、
アーイシャの呪いは、解かれるのか」
男は、ゆるやかに首を振った。
「それは不可能だ」
そして、告げる。
「貴方は、王妃を守れなかった」
その言葉で、
身体の芯が、音を立てて震え出す。
視線が、ゆっくりと――
アーイシャへ向かう。
呼吸は、浅く。
焦点は、もう定まっていない。
何度も見てきた。
死を前にした者の、同じ兆し。
「……アーイシャ。
駄目だ。
僕を、置いていくな……」
縋るように、
血に濡れた手を、握り締める。
返ってきた声は、
戦場の空気に溶けて――
ほとんど、音にならなかった。
「……カイス様……
どうか……生きて……」
「――!」
その手から、
熱が、失われていく。
同時に、
自分の内側で、
何かが遠ざかっていくのを感じた。
淡々と、男の声。
「カイス王。
私が欲するのは、城で匿われた――」
最後まで、聞くことはなかった。
喉の奥が、
内側から――裂けた。
「あああああああああ……!」
そこから先は、
もはや、記憶ではない。
床に伏す臣下の亡骸も、
崩れた玉座も、
すべてが意味を失う。
ただ、殺すための魔術だけが、
世界を塗り潰していく。
叫び。
嗚咽。
血の涙。
カイス・イブン・アル=ウラキウスは、
その瞬間――
完全に、壊れた。
*
――視界は白くかすみ、
意識が、ゆっくりと現実へと引き戻されていく。
「……」
心臓の鼓動が、早鐘を打つ。
呼吸を、ひとつずつ、整える。
「幻獣……」
その名は、
祭壇の奥へと落ち、
冷たく反響した。
「今の記憶が……
アーイシャの、最期かい?」
問いかけに、
頷くことも、
頭を振ることもなく。
幻獣は、
ただ静かに――
息を、吐いた。




