黄昏に首を垂れる
階段の先には、低く広がる祭壇が据えられていた。
壁を形作る石は、僕がかつて目にした頃よりも、角が削れ落ちている。
触れれば、体温をそっと逃がすような――
冷たさと、優しさを併せ持つ感触だった。
儀式用だろうか。
湾曲した短刀が、壁の一角に掛けられている。
何に使われるのか、僕は知らない。――知る必要も、ないのだろう
時間と共に、祈りの形もまた、変わっていくものだ。
「すぅ……」
ナディルは、静かに肺の空気を入れ換えた。
その視線の先――
一般的な馬より、一回り大きな体躯を持つ幻獣がいた。
ライヒは、低く澄んだ威圧を纏い、
まるでこの場そのものの一部であるかのように、佇んでいる。
殺気や、敵意の類ではない。
ただ、そこに在るだけで、
周囲が先に姿勢を正してしまうような気配。
その重さに、足を掴み取られたように――
ナディルの歩みが、止まった。
僕は、隣に立つ少年へと問いかける。
「……恐いかい?」
「うん」
けれど、その声に震えはない。
「でも、傷付けられそうだからじゃない」
一拍。
「ライヒは、こんなに――
こんなに、大きかったんだなって」
「生涯を、ひとつの任に捧げた者の身体と魂は、
いつしか、誰よりも逞しくなるものだよ」
それ以上、多くを語る必要はない。
僕が、ここで為すべきことは――
「行ってこい」
背中を、静かに押す。
同時に、松明の火が揺れた。
炎の灯りに照らされ、
幻獣の透けた身体は、確かな輪郭を得る。
その視線は、まっすぐに――
僕を捉えていた。
鳴き声はない。
だが、そこには、
まるで臣下が跪くかのような、深い慎みと、
感謝を捧げる者の佇まいがあった。
――どうやら、僕のことを。
カイス・イヴン・アル=ウラキウスの記憶を、
今も、はっきりと継承しているらしい。
苦笑して、一歩、引き下がる。
僕に出来ることは、もう終わった。
あとは――
彼が最後に職務を放り出したことを、
黙認すること。
それこそが、
幻獣への、最大限の手向けとなるだろう。
頭を垂れた幻獣の首元を、
ナディルは、静かに抱き止めた。
壊れ物に触れるような慎重さで、
それでも、確かに抱擁と呼べる強さで。
「気付いてやれなくて、ごめんよ」
声は低く、落ち着いている。
「僕は、魂送使としても、
お前の友達としても――半人前だった」
それは、懺悔ではなかった。
事実の報告に、ほんの僅かな自嘲を混ぜただけの声音。
「だから、もっと立派になる」
腕に、わずかに力が籠もる。
「今度は僕が、
お前の手を引けるように」
言葉の数は少ない。
だが、それ以上の重みが、確かに宿っていた。
「次のライヒに、伝えておいて」
一拍。
「生まれ変わったら、迎えに行く」
そして、ほんの一瞬だけ――
声が、揺らぐ。
「……また、逢おう」
その言葉に応えるように。
約束を、結び直すかのように。
幻獣は、
ナディルの身体を、そっと手繰り寄せた。
堰き止めていたものが、そこで崩れたのだろう。
少年の、抑えきれない嗚咽と、
零れ落ちる涙の音が――
静かな祭壇に、確かに響いた。
ゆっくりと、時間は流れていった。
影は角度を変え、
空は黄昏を手放そうとしている。
やがてナディルは、赤く腫れた瞼を指先で拭い、
こちらへ歩み寄ってきた。
「ごめん。
兄ちゃんたち」
「いいさ。
……別れは、済ませられたかい?」
ナディルは視線を伏せたまま、
無言で、けれどはっきりと頷く。
「二人とも、
ライヒに用事があったんだよね?」
その言葉で、ようやく思い出す。
本来の目的を。
魂送使を訪ねた理由――
王妃。
僕の伴侶、アーイシャの最期を、
正しく知るためだ。
だが――
幻獣が終末にあると知ってなお、
僕個人の目的を、無理に果たそうとは思わない。
「他の魂送使をあたるよ。
幻獣は、もう十分、務めを果たした」
比喩でも、建前でもなかった。
それでもナディルは、ゆるやかに首を振る。
「ライヒが、
兄ちゃんに恩を返したいって」
「……彼が、そう言ったのか」
問いながら、視線を向ける。
消え入りそうな輪郭。
それでも、その澄んだ瞳は、
確かにナディルの言葉を肯定していた。
「……ありがとう」
ナディルの頭に手を置いてそう告げ、
僕は幻獣の前へと進み出る。
「君の仕えは、
歳月を重ねた宝のようなものだ。
国は、幾度その背を頼もしく思ったことか」
息を、ひとつ、ゆっくり吐く。
「お疲れ様、ライヒ。
最後に――頼みを、聞いてもらえるかい?」
幻獣は、
小さな嘶きで応えた。
僕はわずかに微笑み、言葉を継ぐ。
「君たちが持つ、死者の記録。
その中の一つを、見せてほしい」
本来、魂送使が保管する魂の記憶を、
第三者が覗き見ることは、許されない。
そう定められている。
ただし、その規則には――
『何人も』という制約が、記されていない。
つまり、
拒否権を持たぬほど高位の者からの命であれば、
魂送使は、従わねばならない。
幻獣は、僕を、
千年にわたる継承の果てに――
カイス・イヴン・アル=ウラキウスと認識している。
「最後の役目に、
規則を踏み越えさせてしまって、すまない」
幻獣は吐息を零し、
それだけで十分だと言うように、静かに頷いた。
その光景に、ナディルは目を見開き、
思わず声を漏らす。
「……あのライヒが、正騎手以外の命令を聞くなんて。
兄ちゃんたち、一体――何者なの?」
「イズヒト様は、かつて世界を治められた御方。
いずれこの世も、再び御手の内に――」
「……」
――やめてほしい。
とてつもない誤解が生まれつつある。
これでは、古い童話を読み過ぎて、
現実と妄想の区別がつかなくなった連中に見えるだろう。
僕はアミナを鋭く睨み、
それ以上言葉を重ねるな、と無言で釘を刺した。
「……申し訳ありません」
彼女が頭を下げるのを、そのままにして、
僕は幻獣の額に手を当てる。
時間は、もう多く残されていない。
今、確かめるべきはただ一つ。
――僕の記憶は、正しいのか。
それとも、誰かによって歪められているのか。
「幻獣。
辿ってほしいのは、約千年前だ」
言葉を選び、ゆっくりと続ける。
「当時のナフリーラトゥ・ン=ヌール。
国王の正妃、
アーイシャ・ラフティマ・レジット――
その最期の時を」
触れるのは、
最も深い痛みを刻んだ記憶の頁。
だが、覚悟なら、すでにある。
向き合わなければ、
アミナが“聞いた”という告げの正体も、
僕がどこへ導かれようとしているのかも、
永遠に分からないままだ。
幻獣の星を映したような瞳と、
視線が重なる。
胸の奥で、
鈴がひとつ鳴った。
差し出されるのは、
懐かしい声。
懐かしい光。
――僕が追い求め続けた、
“彼女”が見ていた景色。
だが。
そこに在ったのは、
病に伏した彼女を看取る記憶でも、
静かに時を重ねる穏やかな日々でもなかった。
視界を満たしたのは、
血の色だった。
喉を焼き切る炎。
悲鳴と祈りが溶け合い、
城という器そのものが、
内側から崩れ落ちていく。
その中心で。
ただ取り乱し、
叫び、
狂ったように力を振るう――
千年前の、
僕自身の姿が、
そこにあった。




