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未熟な魂送使【Ⅲ】


 空は黄昏を帯び始めている。


 白い石の祭壇は夕光を含み、

 昼の硬さを失って、どこか人肌に近い色へと変わっていた。

 香の残り香と水路の湿り気が混じり合う。

 その曖昧な空気の中へ、アミナの問いは音もなく溶けていった。


「イズヒト様。

 どうして幻獣ライヒは、修練場へ向かったとお考えなのですか?」


「ん?

 そうだな……」


 呟きながら、柴色に染まりつつある雲へ視線を投げる。

 僕は短く鼻を鳴らした。


「――見つけて欲しいと、願っているはずだからだよ」


幻獣ライヒが……望んでいる、と?」


 静かに、頷く。


「僕は、永い時を生きている。

 ……いや、違うな」


 一拍置いて、言い直す。


「永い時を、記憶している」


 それは、幻獣の在り方にどこか似ている。

 終わらぬ生を与えられているわけではない。


 命は尽きる。

 肉体は朽ち、呼吸は止まる。

 けれども、時を経て、再び脈動を始める。


 ただ――幻獣と決定的に異なるのは、

 魂のバトンを、誰かに渡す必要がないという点だ。


 受け継がれない。

 置き去りにもならない。


 記憶は、“僕”という、ただ一つの器に沈殿し続ける。


「多くの、親しい人の最期を見届けてきた。

 本当に……数え切れないほどだ」


 その言葉には、嘆きはなかった。

 誇りでも、諦念でもない。


 ただ、事実を事実として並べただけの声だった。

 指を折って数えるように、感情を挟まずに。


「僕を慕ってくれた臣下。

 贔屓にしてくれた商人。

 昨日、名を交わしたばかりの旅人。

 可愛がっていた魔獣たち」


 一つひとつが、同じ重さで語られる。


「墓の前で、泣いたり、語りかけたり、祈ったり……

 夜明けまで、寄り添ったよ」


「……大変、お辛い経験だったでしょう」


「ああ。いつだって、別れは悲しい。

 でも、そればかりじゃない」


 僕は、湿り気を帯びた空気を押し分けるように、言葉を継いだ。


「涙は、出逢えたことへの感謝が形を取ったものだ。

 人は語り、祈り、

 やがてそれを笑い話へ変えながら、生を労う」


 一拍。


「墓前は、悲嘆の場所じゃない。

 感謝を――更新する場所だ」


 それでも――。


「皆、最期を迎える時は、誰かに寄り添って欲しいと願う。

 それは、人も幻獣も同じだ」


 夕光が、石畳の縁を舐める。


「だから、幻獣ライヒは、

 彼にとって、最も想い出深い場所で待っているはずだよ」


「では……待ち人というのは」


「もちろん、相棒だよ」


 そう告げて、僕は石の門の前に立った。


 額を指先でつまむ。

 思考の熱を一瞬そこに集め、名も持たない雑音ごと外へ引き抜くための仕草。


 その指を胸元へ下ろし、呼吸をひとつだけ置く。

 簡素で、けれど確かな祈り。


 アミナも、それに静かに継いだ。


 床に刻まれた幾何の紋様は、傾いた光に引き延ばされ、

 魂の通り道のような影を生んでいる。


 ここで魂送使ルフラニールは学ぶ。

 幻獣と共に。


 声を張らず、急がず、

 死を追い立てないことを。


 暖かな風が吹き抜け、

 どこからか、鈴の音が混じる。


 ――さて。


 まずは、臆病な主人から迎えよう。


「ナディル」


 名を呼ぶと、小さく丸まっていた背中が、

 ぴくりと跳ね上がった。


「……兄ちゃんたち?

 どうして、ここに」


「さあ。

 何かの導き……いや」


 肩をすくめる。


「そんな曖昧な言葉で僕を言いくるめようとする神々は、

 僕を“都合のいい召し使い”だと思っているんだろう」


 そう考えなければ、煮え切らないことが多すぎる。

 すべての役目を終えた暁には、

 多額の賃金を請求するつもりでいる。


「水路を、見ていたのか?」


 問いかけると、ナディルは黙って頷いた。


「水は、過去の記憶を映すんでしょ?

 ここには、よく手を引かれて来たんだ。

 ライヒに」


 その声は消え入るようだった。


「だから……ライヒと修練した日々を、振り返ろうと思って」


「何か、見えたかい?」


「なにも見えないよ。

 ただ、水が流れてるだけだ」


 一拍置いて、ぽつりと。


「街の人は、嘘つきなんだね」


 水底には、想いが沈んでいる。

 果たされなかった祈りと、

 過ぎ去った時間が眠っている――

 人々は、そう言う。


 僕は、水面を覗き込んだ。


「ちゃんと、映っているじゃないか」


「……え?」


「君は、どうして幻獣ライヒ

 指を噛みちぎったのか――

 その理由が知りたかったんだろう」


 水面は静かだ。

 何ひとつ、映像は流れてこない。


「過去を振り返れば、

 その中に答えがあるんじゃないかと思って、

 ここまで来た」


 だからこそ。


「全部、映っている」


 不意に、ナディルの過去が洪水のように流れ込んできたわけではない。

 だが同時に、街の者たちが揃って嘘を吹き込んでいた、という話でもなかった。


「水は、現在を映す。

 けれど――その像は、

 過去の重なりで、できている」


 一拍。


「向き合えば、

 記憶は、自然と差し出されるものなんだ」


「……じゃあ」


 ナディルは、水面から視線を離さないまま言った。


「誰かが、時間を遡って、

 見せてくれるわけじゃないんだね」


「ああ」


 肯定する。


「僕たちに出来るのは、

 “いま”の姿を見て、

 そこに至るまでの足跡を、振り返ることくらいさ」


 その言葉の意味を――

 街に流布する伝承の正体を、

 ようやく噛み砕いたのだろう。


 ナディルは、大きく息を吐いた。


「それなら、結局……」


 声が、わずかに落ちる。


「どうしてライヒが、

 あんなことをしたのか……

 分からないまま、か」


 終末を目前にして主を傷つけ、

 任を放棄する。


 これまで、一度も経験してこなかった裏切りだ。


 ――主として、認められていない。


 そう結論づけてしまえば、

 すべては簡単だった。


 だが。


 それは、幻獣ライヒにとっても、

 不本意な理解だろう。


 この行動に至った理由は、

 必ず、過去のどこかにある。


 だからこそ――

 僕は、別の問いを差し出した。


「ナディル」


 名を呼ぶ。


「君の正装で、

 普段と違うところは、ないか?」


「……?」


 ナディルは、自分の礼服を確かめるように視線を巡らせた。

 襟を引き、長い袖を捲り、留め具の鎖へと順に目を走らせる。


 ほつれはない。

 汚れもない。


 返ってくるのは、

 ――いつも通りだ、と言いたげな瞳だった。


 無理もない。

 彼はまだ、正式に任を着く年齢ではない。

 違和感は、違和感として働く前に、日常へと溶けてしまう。


 僕の一歩後ろで、アミナがわずかに頬を緩めた。

 そして、意味を含ませるように、右手をひらりと揺らす。


「――!」


 その仕草に気づき、

 ナディルは、息を零すように呟いた。


「……護りの籠手が、ない」


「君は“今日に限って忘れた”と言ったね」


 静かに、言葉を重ねる。


「普段は、必ず身につけているものだ。

 幻獣ライヒは、永い時を魂送使ルフラニールとして務めてきた。

 だから当然、

 そこに“ある”ものだと、認識していた」


 籠手は、風と寒さ、砂埃から手を守る。

 感覚の鈍りを防ぎ、

 所属や儀礼の有無を示す識別具でもある。


 そして――

 幻獣が暴れた際、

 擦過傷や打撲から、手を庇うためのもの。


 この街では、こう教わる。


 『手は、意志が最初に現れる場所。

 籠手は、それを守るためにある』


 すべてを言葉にしないまま、思想だけを手渡す。

 それは美しさでもあり――同時に、問い直されるべき在り方でもある。


幻獣ライヒは、

 君を傷つけるつもりなんて、最初からなかった」


 断言する。


「彼は、

 手を引きたかったんだよ」


「……手を、引く?」


 ナディルの声に、焦りが滲む。


「これから、大切な仕事があるんだよ?

 それも、ライヒにとって――

 最後の務めになる日なのに」


 噛みしめるように、続ける。


「一体、どこに連れて行くって言うんだ」


「最後だと、知っていたからさ」


 一拍。


「だから、

 すべてを投げ出したんだよ」


「神聖で、誉れある仕事なのに?」


「そんなものより――」


 一拍、置く。


「ずっと、大切なものを、

 幻獣ライヒは選び取ったのさ」


 暴走でもない。

 裏切りでもない。


 ――最期の選択として。


「友と、一緒に過ごす時間を」


「――!」


 ナディルの瞳が、大きく揺れた。


 そこに宿ったのは、

 理解の光だった。


 同時に――

 それを受け入れてしまうことへの、確かな恐怖。


 幻獣の終末は、月が昇る前に訪れる。

 ナディルと共に過ごした日々は、

 次に生まれ変わる幻獣へと、確かに引き継がれる。


 それでも。


 今日という一日は、二度と戻らない。


 区切りは、区切りとして、

 否応なく与えられてしまう。


 その瞬間を前にして、

 どんな言葉を残せばいいのか――

 分からなくなったのだろう。


「兄ちゃんは……

 魔術師なんだよね」


 声は、か細く震えていた。


「ああ」


「……勇気の、魔法を下さい」


 一拍。


「ライヒと、向き合うための」


 それは、ナディルの“選択”だった。


 魂送使ルフラニールとしてでも、

 半途であるがゆえでもない。


 ただ――

 共に生きてきた家族に、別れを告げるため。


 自分を前へ押し出す、

 ほんの小さな“口実”が、欲しかっただけだ。


 ならば。


 僕が与えるべきものは、

 呪文でも、術式でもないだろう。


「分かった」


 穏やかに告げる。


「とっておきを、授けてやる」


 ナディルの背に、手を置いた。


 魔術名はない。

 魔力の流れも、紋章の発光もない。


 あるのは、

 夕陽に温められた、確かな体温だけ。


 それでも――


「君の歩む道に、

 溢れんばかりの祝福を」


「……ありがとう」


 水路の縁に座り込んでいたナディルの手を、引き上げる。


 使命や宿命といった重さとは、まだ無縁の小さな掌。

 だが――

 この瞬間を、零さず掴み取ろうとする意志だけは、

 はっきりと伝わってきた。


 彼が立ち上がるのを見届けてから、

 アミナが、静かに口を開く。


「祭壇の奥から、

 幻獣ライヒの気配が感じられます」


 一呼吸。


「彼も……

 この場所に来ているのでしょう」


「……ライヒが」


 ナディルは一度、言葉を喉の奥へ沈めた。


 そして、息を整える。


「行こう。

 兄ちゃんたちにも――

 見届けて欲しいんだ」


 僕とアミナは、ただ頷いた。

 それ以上の言葉は、今は要らない。


 祭壇へ続く道には、松明が並んでいた。

 火は、すでに灯っている。


 誰かが点したわけではない。

 時を迎えれば、

 そこに“在るべきもの”として宿る光だ。


 橙の炎が、白い石を撫で、

 影を長く引き延ばす。


 僕たちは階段を――

 一段。

 また一段と。


 踏みしめるように、

 確かめるように、

 歩みを進めた。


 別れの場所へ。

 そして、選び取った時間の、その先へ――。

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