未熟な魂送使【Ⅱ】
アル・ナフリールの裏路地は、昼の光を拒むように、細く折れ曲がっている。
頭上では、建物同士がほとんど触れ合うほどに迫り、
干された布と木製の梁が、わずかに残った空を裂くように張り巡らされていた。
その狭隘を――
獣が駆ける。
硬い蹄音に引きずられるように、疾風が裏路地を貫いた。
布がはためき、砂埃が舞い、空気そのものが逃げ場を失って震える。
ただの人間では、追いつけない速度だ。
だから、僕は声を張り上げた。
「アミナ!
そっちに向かった、頼む!」
「お任せ下さい!」
返答は、屋根の上から降ってきた。
住居の縁に立つアミナは、迷路のように折れ重なる通路を、俯瞰で捉えている。
獣の進路、逃走の癖、わずかな躊躇――
そのすべてを、彼女は既に把握していた。
右手に、薄暗い魔術紋が浮かび上がる。
引き寄せの術式。
「【牽引】」
もし、使用者が僕であれば。
出来ることは、せいぜい目の前の物を、自分の手元へ引き寄せる程度だ。
だが、彼女は違う。
魔術は、路地裏に乱雑に積まれていた無数の木箱を、まるで軽い紙細工のように宙へと持ち上げた。
浮遊した木箱は、軋み合いながら空中で位置を変え、
アミナの右手が振り下ろされると同時に――
幻獣の進行方向へと、叩き付けられるように積み上がった。
――出口は、塞いだ。
この先は、一方通行。
路地は細く、分岐もない。
行き場は、もうない。
あとは――
僕が、幻獣の手綱を掴めば、それで終わりだ。
……そのはずだった。
「うおおお!
観念しやがれ、この恩知らずがああ!」
叫びは、閉塞した裏路地に叩きつけられ、跳ね返る。
かつての王の顔も忘れるとは、随分と薄情な幻獣だ。
捕らえたなら、
この先千年は忘れられなくなる教育を施してやる――
そのくらいの覚悟で、手を伸ばした。
しかし。
「あれ……」
漏れたのは、幻獣の諦念の息ではない。
どうしようもなく、間の抜けた――僕自身の声だった。
伸ばした指は、
確かに触れた“はず”だった。
だが、感触がない。
まるで、霞を掴むように、
僕の手は幻獣の身体をすり抜けた。
残されたのは勢いだけだ。
止まることを知らない身体が、そのまま木箱の山へと突っ込んでいく。
「何で、こうなる――」
嘆きも、祈りも、最後までは許されなかった。
瞬間、積み上げられていた木箱が、軽快な破砕音を立てて崩れ落ちる。
木片と砂埃が舞い上がり、視界を白く塗り潰した。
痛みは、さほど大きくない。
だが、敗北感だけは、胸の奥に重く沈み込んだ。
――感傷に浸っている暇はない。
手でかき分けるように、砂の幕を振り払う。
「……!」
視界が開けた、その先。
幻獣は、木箱に埋もれた僕を、
まるで憐れむかのように見下ろしていた。
だが――
その体躯に、決定的な違和感がある。
幻獣ヌール・ラーヒールの毛並みは、通常、夜の色に近い。
黒ではない。
深い群青だ。
光を吸い込み、
月明かりの下でも、輪郭だけが浮かび上がる存在。
しかし、目の前の幻獣は違った。
星空を映したかのように、
身体の奥に光の粒を抱き込み、淡く、透けている。
今にも、そのまま空気へと解け、
消え去ってしまいそうな――
そんな不確かさ。
頭上に干された布。
その影を抜けるように、幻獣が一歩を踏み出す。
途端、身体は元の夜色へと戻った。
――この現象。
覚えがある。
「幻獣……」
無意識に、声が低くなる。
「……もしかして、
君――死期が、近いのかい?」
幻獣は、答えなかった。
その目は、異様なほど澄んでいる。
瞳の奥に虹彩がなく、
まるで――
空の奥を、そのまま覗き込んでいるかのようだった。
彼はただ、静かに息を吐く。
それだけで、鳴き声はない。
そして、再び歩みを進めた。
影に触れるたび、その身体は透け、
陽を受けるたび、元の輪郭を取り戻す。
存在が、
現れては薄れ、
薄れては戻る。
その繰り返しを続ける背を、
僕は、ただ眺めることしか出来なかった。
「イズヒト様!」
「兄ちゃん!」
現実が、声を伴って追いついてくる。
振り返ると、アミナとナディルが駆け寄ってきていた。
「ご無事ですか?」
「ああ。
最近、痛覚とは、特別に仲が良いんだ」
「また、ご冗談を……」
呆れたように言いながら、
アミナとナディルは僕の腕を取り、引き上げる。
足元には、砕け散った木箱の残骸。
破片の一つ一つが、
先ほどの衝撃を無言で告げていた。
派手に散らかした。
片付けるにも、またアミナの力を借りることになるだろう。
――だが、その考えは、一度脇へ追いやる。
「ナディル」
名を呼ぶ。
「幻獣は、
何年、この職務を務めている?」
「……え?」
唐突な問いに、ナディルは瞬きをする。
思案する素振りも見せず、
彼は淡々と答えた。
「分からないよ。
僕の母さんが生まれる、ずっと前からだ」
ごく当たり前の事実として、言う。
「幻獣って、記憶を引き継ぐんでしょ?
だから、数千年は生きてると思うけど」
その瞳に宿るのは、無知ではない。
――無垢だ。
変わらぬ日々が、
これからも当然のように続くと信じて疑わない、
揺るぎない光。
僕は、声を低く落とした。
「確かに、幻獣は生き続ける」
一つずつ、言葉を置く。
「彼は、これからも魂送使として、
その使命を果たすだろう」
一拍。
「だが――」
視線の先。
裏路地の奥へと消えゆく、淡い背。
「幻獣は、死ぬ」
裁くようにではない。
断罪でもない。
ただ、
知ってしまった事実として。
「彼らは、約百年を周期に、
寿命を迎える存在なんだよ」
「百年……?」
声は、わずかに揺れた。
だが、その揺れは、すぐに笑いへと変換される。
「あはは。
そんなわけ、ないじゃないか」
否定というより、
拒絶に近い笑いだった。
「僕の家には、代々の役職を記した歴史書があるんだ。
魂送使の名と、その務めが、全部残ってる」
早口になる。
「そのすべての頁に、ライヒがいる。
どの代にも、同じ名前で、同じ幻獣として」
まるで、
証拠を積み上げるように。
「だから――
百年で死ぬなんて、おかしいよ」
「そうか」
短く、頷く。
「君の一族は、
幻獣の名を、変えないのだな」
「……?」
ナディルは、意味を測りかねるように首を傾げる。
「であれば、知らないのも無理はない」
視線を、再び裏路地の奥へ向ける。
そこにはもう、幻獣の姿はない。
「幻獣は、生前の記憶をすべて引き継ぐ。
そして、程なくして生まれ変わる」
淡々と。
説明ではなく、仕様として語る。
「だから彼らの世界では、
『死』という概念が、あまり浸透していない」
一拍。
「だが――
確かに、寿命はある」
百年。
長いようで、短い周期。
「そのたびに、
あえて呼び名を変える一族もいる」
それは、
区別のためではない。
「同じ存在ではないと、
自分たちに言い聞かせるためだ」
言葉を、選ぶ。
「だが、君の家はそうしなかった。
――いや、出来なかったのだろう」
家族として。
役獣としてではなく。
「……」
ナディルは、何も言わない。
けれど、
その瞳が、初めて揺れた。
否定でも、笑いでもない。
信じてきた時間そのものが、
わずかに軋む音がした。
僕は、残酷であることを理解した上で、
それでも、必要な言葉を選び取る。
「幻獣はいま――
周期の末だ」
「嘘だよ……!」
即座に、吐き捨てるように言った。
その声は怒りよりも先に、
願望の形をしていた。
「僕は、ずっとライヒと生きてきた!
それなのに、兄ちゃんの方が詳しいなんて、
そんなの――おかしいじゃないか!」
感情が、言葉を追い越す。
「知ってるよ。
兄ちゃんの、付けてる指輪……」
ナディルの指先が、
僕の手元――“序列”を示す指輪を、真っ直ぐに指した。
「石なしの指輪だ。
虚位って言うんだろ」
言葉が、刃になる。
「功績も、知識も、権威も……
何も持たない人間が、身につける指輪」
だから――と、
言わなくても分かるように。
「兄ちゃんは、
デタラメを言ってるんだ」
その瞬間。
刺すように――
けれど、驚くほど冷静な声が、空気を切った。
「イズヒト様が手を差し伸べるのは、
ナディルが“半途”だからではありません」
アミナだった。
声は穏やかで、
だが、一切の曖昧さがない。
「階級や役職は、
必要ゆえに与えられた“形”に過ぎません」
一呼吸。
「しかし――
見えない部分において、人は皆、等しく臆病で、
等しく、迷います」
言い切る。
「だからこそ、
階級を理由に、魂を見下してはならない」
「……」
僕は、静かに手を挙げ、アミナを制した。
階級は、秩序のためにある。
価値を決めるためのものではない。
――ナディルも、
本当は、分かっている。
それでも。
吐き出さずにはいられなかったのだ。
その未熟さも、
その弱さも。
僕は、咎めるつもりはない。
アミナは小さく頭を下げ、
一歩、引いた。
ナディルは、顔を伏せたまま、
言葉を宙に漂わせている。
しばらくして――
掠れた声が、落ちた。
「……ごめんなさい」
続けて。
「でも……
もう、放っておいてよ」
それは拒絶ではなく、
助けを受け取る勇気を、
まだ持てない者の言葉だった。
言い残し、
ナディルは裏路地の奥へと走り去っていった。
足音が、石畳に短く跳ね、
やがて折れ曲がった路地に吸い込まれて消える。
「ナディル……!」
「アミナ。
追わなくていい」
即座に言った。
躊躇はなかった。
「申し訳ありません、イズヒト様。
私が……出過ぎた真似をしたばかりに」
「いいよ」
声は淡々としていた。
感情を抑え込んでいるわけでも、突き放しているわけでもない。
ただ、そこに在るべき温度で、そう在った。
「僕は、独りじゃないと知れた。
それだけで、十分だ」
一拍。
「ただ――
ナディルは、共に生きた相棒を、失いつつある」
名を変えないという選択。
それは、永遠を信じ続けるということだ。
だが同時に――
死を認識しないという、
残酷さでもある。
「ナディルは、間違っていない。
ただ……守られ過ぎていたんだ」
「……はい」
現実を突きつけられるには、
あまりにも突然だった。
それだけのことだ。
僕は、大きく息を吐く。
砂と日差しを肺に入れ、
そして――問いを一つ、口にした。
「アミナ。
君は――今日、死ぬと分かっていたら、どうする?」
唐突な問いだった。
アミナの瞳に、わずかな戸惑いが浮かぶ。
けれど理由を問い返すことはなかった。
ほんの僅か、思案する時間。
やがて、目尻に細い皺を刻み、彼女は笑った。
それは裁定者としてでも、
臣下としてでもない。
ただの、少女の――
曖昧で、柔らかな笑みだった。
「そうですね……
イズヒト様から、頂いたもの。
私が見てきたもの、感じてきたものを……
ただ、ゆっくりと、
イズヒト様に聞いて頂きたいです」
「それだけか?
最期の日だぞ」
「はい。
それだけでございます」
「……謙虚だな」
「では、もし許されるのであれば」
アミナは一呼吸置き、
思い切ったように、最大限いたずらめいた表情を作った。
「甘いお茶菓子を、
頂きたいものです」
思わず、笑いが零れた。
生真面目な彼女も、
最期には、階級や役職といったものを、
きちんと放り出すのだ。
――であれば。
今、慌ててナディルを追う必要はない。
彼らが行き着く場所は、
きっと同じだ。
主を傷つけ、
使命を放り、
幻獣は、まもなく死ぬ。
けれど――
心配しなくとも、
この物語は、最初から。
悲劇だけで終わる話では、
なかったのかもしれない。




