表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/48

未熟な魂送使


 そのいななきは、美しかった。


 謳い手の喉から零れ落ちる歌声とも、

 青銅の楽器が震わせる音色とも異なる――

 きらびやかで、しかして雷鳴を孕んだ、

 威厳そのものの鳴き声。


 迫り来るそれに“触れた”瞬間――

 世界が、跳ね上がった。


 いや。

 正確には、僕が跳ね上げられたのだ。


 衝撃が骨を打ち、視界が昼の市場を一回転させる。

 天幕と天幕の隙間を縫うように、

 商人たちの顔が、驚愕という一色に塗り潰されていく。

 まるで見世物だ。

 王の末路としては、あまりにも出来が悪い。


 前世は支配者。

 今世の死因――馬に轢き殺される。


 千年後、覚えておけ。

 これは悲劇ではない。

 滑稽という名の刑罰だ。


 あの馬、末代まで、鍋にしてくれる。


 そんな呪詛めいた恨みを抱いたまま、

 地面が、容赦なく身体を叩いた。


 同時に、悲鳴が響く。


「イズヒト様ぁっ!」


「……僕の生涯に、拍手は要らない。

 ひづめの音で、十分だ」


 喉の奥から、呻くように言葉を絞り出す。


「……来世は、人参農家に、なろう。

 こんな最期を迎えずに済むように」


「笑えない冗談はおやめください。

 すぐに、治癒魔術をかけますから」


 アミナの両手を、淡い緑色の光が包み込む。

 砕けた痛みは引いていく。

 だが、この虚しさと屈辱だけは、骨の奥に居座ったままだった。


 仰向けの僕を、ひとりの少年が覗き込む。

 その声は、吹けば消えてしまいそうなほど弱く、震えている。


「だ、大丈夫かい……?」


「大丈夫なものか……」


 捻れた関節を無理矢理に戻し、身体を起こす。

 軋む感触が、現実を主張してきた。


「その装い――

 君が、さっきの幻獣を使役する“魂送使ルフラニール”だろう。

 一体、どんな教育を受けている」


「ご、ごめんなさい……」


 少年は眉をひそめ、反射的に頭を下げた。

 謝罪の形だけが、身体に染みついている。


 歳は、随分と若く見えた。

 魂送使ルフラニールは神殿で選別され、特別な修練を積む。

 正式に任じられる最年少は、十五。

 それを思えば、この少年は、規定ぎりぎりか――あるいは。


 纏う衣は、深い藍と煤色の中間。

 夜明け直前、最も空が沈む色だ。

 布は絹に似ているが、触れれば乾いている。

 砂漠の風に晒されても、決して音を立てない織り。


 上衣は前を留めず、胸元に細い鎖を渡すのみ。

 そこに吊るされた小さな金属紋章――

 円環の内側から、空へと解けていく一本の糸。

 死者の記憶が、天へほどけていくさまを象った意匠だ。


 袖は長く、指先が完全に隠れるほど。

 それは「魂に直接触れない」ための戒めであり、

 同時に、己の感情を外へ漏らさぬという誓約でもある。


 だが。


 その長い袖口から――

 鮮血が、静かに滴り落ちていた。


「手を、見せてみろ」


「……え」


「いいから」


 有無を言わせず、少年の腕を掴む。

 重みのある袖を捲った、その瞬間――

 息が、止まった。


 右手。

 薬指と小指が、根元から失われている。

 引きちぎられたような痕だ。断面はまだ新しい。

 血は止まりきっておらず、肉の赤が、生々しく空気に晒されていた。


 ――ついさっき、だろう。


 幻獣の嘶きと、僕の転倒。

 時間は、確かに重なっている。


「アミナ」


 視線を外さず、名を呼ぶ。


「手当てを頼めるか」


「はい……。

 ですが、欠損が激しい。

 完全に戻せるかは……」


 アミナは一瞬、言葉を選ぶ。

 その躊躇が、事の深刻さを裏付けていた。


「君なら出来るさ」


 軽く言ってのける。


「僕の局部を、幾度となく切り落としては、治したじゃないか」


「…………」


 返答はない。

 ただ、鋭い視線だけが突き刺さる。


 これは完全に、地雷だった。


 冗談で覆い隠そうとした恐怖も、

 痛みを笑いに変える癖も、

 この場では、すべて不適切だった。


 僕は口を噤む。

 もう、あの話題には触れない方がいい。


 アミナの魔術が、少年の失われた指を、ゆっくりと元の形へと引き戻していく。

 それは裂け目を塞ぐ治癒ではなく、

 時間そのものを撫で戻すような、精緻で残酷な技だった。


 肉が繋がり、骨が呼応し、

 血の流れが、かつて在った順路を思い出す。


 治癒が終わると、少年は恐る恐る拳を握り、

 そして開く。

 もう一度、確かめるように、同じ動作を繰り返した。


「……ありがとう。

 治癒の魔術を、実際に受けたのは初めてだから……

 正直、少し、怖かった」


「いえ。

 ですが、無理に動かさないように」


 アミナの声は静かだったが、容赦はなかった。


「修復箇所は、まだ脆い。

 酷使すれば、いつ千切れるとも分かりません」


 その一言で、少年の顔色が変わる。

 安堵ではない。

 ――理解だ。


 彼は、宝物を隠すような仕草で、

 右手を長い袖の奥へと仕舞い込んだ。


「……大切に、します」


 小さく呟いてから、

 意を決したように顔を上げる。


「僕は、ナディル。

 魂送使ルフラニールの……半途だよ」


 半途。


 その言葉が、胸の奥に沈む。


 修練の途中。

 守られる身分でもなく、

 任を拒める立場でもない。


 なるほど、と合点がいく。

 衣装が身体に馴染んでいないのは、仕立ての問題ではない。

 役割だけが先に与えられ、魂が追いついていないのだ。


「僕はイズヒト。

 こっちは、アミナだ」


 僕の名に続いて、

 アミナが静かに一礼する。


 それだけで、

 市場に漂っていた血の気配が、ようやく薄れた。


「ナディル」


 名を呼ぶ。


「僕らは、君たち魂送使ルフラニールを訪ねて来た」


 まさか、その最初の挨拶が、

 物理的に蹴り飛ばされることとは……とまでは言うまい。


 「さっきの怪我だ。

 ……何が、あったんだい」


 問いかけると、

 ナディルは視線を落とし、言葉を探すように唇を噛んだ。


 恥なのか。

 それとも――恐怖か。


「……さっきの幻獣。

 ヌール・ラーヒールの『ライヒ』って言うんだけど……

 あいつに、指を噛みちぎられたんだ」


「……?」


 思わず、眉が動く。


「あの幻獣は、獰猛な種ではないはずだが」


 魂を運ぶために鍛えられた肉体は、確かに強靭だ。

 だが、ヌール・ラーヒールは本来、

 騎手に対して誠実で、温厚な性質を持つ。


 主を傷つけるなど、あり得ない。


 ナディルは、その疑念を察したように、

 自嘲する乾いた笑みを浮かべた。


「見ての通り、僕は“半途”なのに、正装を着せられてる。

 正式な任命は、来年からなんだ」


 一拍。


幻獣ライヒの正騎手は、僕の母さんだよ」


 声が、少しだけ柔らぐ。


「でも今は、“胎の庇護”の下にある。

 弟か、妹か……それは分からないけど、

 もうすぐ生まれるんだってさ」


「……それで、君が代わりに?」


「うん」


 小さく頷く。


「神聖な儀式を、半途が執り行うなんて……

 王に見つかったら、どうなるか分からないけど」


 僕とアミナは、無言で視線を交わす。


 ――本来は最悪の組み合わせだ。

 かつての王と、秩序の執行者。


 正騎手が職務を他者に譲ることは、禁忌。

 理由があろうとなかろうと、

 罰せられるのは、譲った者と、受けた者、双方だ。


 ……だが。


「“胎の庇護”か」


 僕の言葉を、アミナが胸中で反芻するように、

 静かに目を閉じた。


 選択を、委ねたのだ。

 裁定ではなく、判断を。


 ならば――。


「この国では、生も死も、等しく扱われる」


 独り言のように、言葉を落とす。

 それは、この国の本来の名が内包する意味だ。


「秤の、両皿のように」


 生まれ来る命と、

 送り届けられる魂。


「新たに生まれる命のために、

 魂を運ぶ務めを休むというのなら――

 それは、きっと、許されるよ」


 口元が、わずかに歪む。


「少なくとも、千年前の王と執行者は、目を瞑るさ。

 ……彼らはもう、目も耳も、

 随分と遠くなっているからな」


 アミナは、わずかに口許を綻ばせた。

 この冗談が、冗談として届く相手は、彼女しかいない。


 ナディルは、不安を貼り付けたまま、眉を寄せる。


「そうかな……

 せめて、母さんみたいに上手く出来ればいいんだけど」


「なら、息子の君は、きっと上手くやれるさ」


「はは。ありがとう」


 笑ってみせたが、その声は軽くない。


「でも……僕は、きっとライヒに、

 まだ主と認められていないんだ」


 治ったばかりの右手を、空へ翳す。

 光の中で、指がわずかに震えた。


「手は、意思が最初に現れる場所だ――

 そう、ずっと教えられてきた」


 一拍。


「なのに今日に限って、護りの籠手を忘れた。

 ……こんな初歩的なことで」


 ナディルは、苦笑する。


「これじゃあ、

 いつまで経っても、正騎手にはなれないよね」


 責めているのは、幻獣ではない。

 母でも、制度でもない。


 ――自分自身だ。


「……」


 少し、思案する。


 籠手を忘れたから。

 未熟だから。

 ――そんな理由で、幻獣が指を噛みちぎるだろうか。


 いや。

 聞いたことがない。


 これは予測ではない。

 願望でもない。

 永い時の中で堆積した、知識による否定だ。


 きっと、他に理由がある。


「ナディル。

 ひとまず、幻獣を探そう」


「え……?」


「放っておいたら、

 またどこで人を跳ね飛ばすか分からない」


「こ、怖いな……

 また指を噛みちぎられたら――」


「噛まれるくらいなら、まだマシだ」


 自分でも、意外なほど平坦な声だった。


「魂を送る者が、

 自分で仕事を増やしたら、

 それこそ笑い話にもならない」


「……う、うん。

 そう、だよね」


 ナディルは、深く息を吸い込み、頷いた。


 ――どうして、こうも物事は円滑に運ばない。


 死者の記憶を訪ねに来ただけのはずが、

 気づけば、幻獣の捜索だ。


 だが、この違和感を無視する方が、

 よほど不自然だった。


 この出来事さえも――

 もし何かの導きであるなら。


 それが、

 祈りの形をしていなくとも、

 僕は、目を逸らさずに受け取ろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ