消えゆく花の時間【Ⅱ】
アーイシャの死について、
語った。
理解された。
共有された。
それでも――
疑念だけが、沈殿するように残った。
過去を整理したはずだった。
言葉にし、因果に並べ、納得できる形へと収めたはずだった。
なのに今度は、過去の方が、未来へと滲み出してくる。
侵食。
そんな言葉が、最も近い。
僕の記憶の中で、
アーイシャは、二度、死んでいる。
病に伏し、穏やかに、静かに消えた彼女。
そして――
炎と金属と悲鳴の中で、確かに命を奪われた彼女。
鮮明に残り、記憶に焼き付いているのは前者だ。
彼女は病で死んだ。
間違いない。
息が、うまく吸えない。
胸郭が狭まり、空気が肺に届く前に、砕けていく。
「はあ……はあ……」
無意識に、呼吸の音が零れる。
「イズヒト様?」
名を呼ばれ、不安げに覗き込むアミナと視線が重なる。
赤い瞳に映る僕の顔色は、生気を削がれたように、はっきりと青ざめていた。
得体の知れない不快感が、胸の奥底で渦を巻いている。
だが――
この場で記憶の齟齬に怒りを向けても、何ひとつ前には進まない。
今は、千年後だ。
「これは何なのだ」と、
理解しようとする者に八つ当たりすることが、
今の僕に許される選択であるはずがない。
――頭の中だけは、静寂であれ。
感情を排し、
事実を並べ、
起きていることを、そのまま。
“裁定者”の前に、差し出す。
心配そうに身を乗り出すアミナを、
僕は静かに、平手で制した。
「アミナ……
僕は、あまりにも永い時を、記憶し続けていたせいで……
少し、おかしくなってしまったのかもしれない」
「カレン様との一件に、魔術演舞。
ここ数日、心身の疲労が重なっておられるのでしょう。
どうか、今はお体を――」
「違う」
遮るように、しかし声は低く、断定する。
それは否定ではない。
切り捨てでもない。
――“切り分け”だ。
僕は一度、視線を水路へ落とす。
流れは変わらない。
千年前とも、昨日とも、何ひとつ違わない。
だからこそ、確信できた。
「疲労でも、混乱でもない。
――記憶が、壊れているわけでもない」
ゆっくりと、言葉を選ぶ。
誤れば、この瞬間から、すべてが“狂気”として処理される。
「落ち着いて聞いて欲しい。
そして、今、僕の中で起きている状況を、
客観的に、裁定して欲しい」
「……。
……はい」
「僕の中には、
“同時に存在できないはずの結末”が、
並んでいる」
アミナの眉が、わずかに動いた。
「アーイシャは、病で死んだ。
それは事実だ」
一度、言葉を置く。
「だが同時に――
戦場で、確かに殺されている記憶が、
奥底に存在する」
一拍。
「どちらかが虚偽なら、
僕は、ここまで息が詰まらない」
胸に手を当てる。
鼓動は、確かにある。
生きている証だ。
「――問題は、
“どちらも真実として残っている”ことだ」
視線を上げる。
「何が、起きていると思う?」
アミナは、すぐには答えなかった。
裁定者としてではなく、
一つの存在として、沈黙を選んでいる。
その沈黙が――
この話が“錯乱”ではない可能性を、
静かに、肯定していた。
アミナは一度、目を閉じた。
主が、カレンという愛の執着に絡め取られ、
すでに壊れてしまったと見るべきか。
それとも――。
やがて、重たい沈黙を押しのけるように、口が開かれる。
「催眠、あるいは幻覚……
もしくは、すでに何者かによって、
イズヒト様を混乱させる魔術が施されている可能性も、否定はできません」
「……僕を、疑わないんだな」
「失礼ながら」
即座に、そう前置いてから。
「アーイシャ様を戦場で失った衝撃から、
ご自身を守るために、
都合の良い最期を作り上げた可能性も、視野には含めました」
躊躇いのない口調だった。
情を挟まぬ、裁定者の声音。
だが、その言葉は、すぐに切り捨てられる。
「――しかし」
わずかな間。
「もし記憶を改ざんするのであれば、
アーイシャ様の魔術回路が焼き切れていたという、
あまりに不審な状況を、残すとは考えにくい」
確かに。
僕が、自分に都合の良い記憶を捏造するのなら、
アーイシャの死因は、老衰にする。
穏やかで、責める者のいない結末を、選ぶ。
それ以前に――
僕は、愛する者の最期を、
自分の目で看取る記憶など、欲しはしない。
臣下と、アーイシャに囲まれ、
先に逝くことを、願うはずだ。
アミナの判断は、
状況だけでなく、
“僕という人間の性分”までを、材料に含んでいた。
――だからこそ、
その結論は、冷たく、正しい。
「君の忠誠は、論理が情を上回る。
――“秩序の裁定者”として、申し分ないね」
「ありがたき御言葉にございます」
「では――」
一度、言葉を切る。
その沈黙は、思考のためではない。
問いを、正しい角度に研ぐための間だった。
「すでにカレンによって、
僕の精神に錯乱が施されていると、見るべきか」
「現状、考え得る可能性としては、最も高いかと」
「昨日、寝る前に、あいつに手錠でも掛けておくべきだったな」
自嘲めいた冗談を零し、
大きく息を吐く。
それは笑いではなく、
これから最悪の仮説を口にするための、
防衛反応に近かった。
「なあ、アミナ」
声を落とす。
「ここは、千年後の
ナフリーラトゥ・ン=ヌールで、間違いないか?」
「……?」
一瞬の戸惑い。
だが、すぐに裁定者としての思考が立ち上がる。
「神殿の位置、街の情景、住居の構造、
そして遺物の痕跡――
いずれを取っても、符合しております」
一拍。
「アルナ・フリールは、
我が故郷の、千年後の姿であると、判断いたします」
「そうか」
短く、頷く。
そして――
次の問いを、置いた。
「君は、なぜ
千年前の記憶を、保持している?」
その瞬間。
アミナの表情から、
裁定者としての均衡が、消えた。
まるで、
時間そのものに、
不意に名を呼ばれたかのように。
赤い瞳が、わずかに揺れる。
言葉が、
来ない。
「僕は、特別だ」
言い訳でも、誇示でもない。
ただの事実として、そう告げた。
「そういう魔術を、かつて生み出した。
禁秘級魔術――
当時の名称は【|永劫回帰《アル=アウダ・アル=アバディーヤ》】だったか」
一拍。
「千年を周期に、
記憶ごと転生させる禁術だよ」
声は低く、淡々としていた。
感情を乗せれば、真実が歪む。
「これは、誰にも告げたことがない」
だから――
と、言葉を継ぐ。
「千年先で、生まれ変わった臣下と出逢うことはあっても、
千年前の臣下と、再び相まみえたことは、これまで一度もなかった」
誤魔化す意味はない。
ここでは、曖昧さそのものが毒になる。
「君との再会は、“奇跡”なんて言葉で片付くものじゃない」
視線を逸らさず、告げる。
「不可解だ」
「……」
アミナの唇が、わずかに震えた。
それは恐怖ではない。
自身の存在を、初めて“外側から見ようとした者”の反応だった。
やがて、
自分自身を疑うような眼差しで、彼女は静かに口を開く。
「これは……
王の加護や、権能によるものでは、なかったのですね」
小さく、息を吐く。
「イズヒト様」
その声は、忠誠ではなく、裁定だった。
「これより先、
私のことも、信用なさらないでください」
言い切る。
「既に――
私という存在そのものが、
何らかの魔術によって生み出された幻影である可能性も、否定できません」
その瞳は、かつての忠臣と変わらぬ冴えを宿していた。
情を排し、己をも切り捨てる覚悟の光。
そして、告げる。
「疑うべきは――
世界そのものかと、存じます」
語られたのは、
現世にアミナ・ビント・ヌリーヤが存在しているという、明確な矛盾。
そして、この日が、
僕が“現世でどう在るのか”を定める、分岐点になるのだと――
理解してしまった。
【ビスミッラーヒ】
|この選択が、
光へと近づくものでありますように。




