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消えゆく花の時間


「アーイシャ様の最期について――

 お聞かせいただけないでしょうか」


「――!」


 その問いは、胸の奥へと打ち込まれた。

 音もなく、しかし確実に、抜けない楔として。


 前世の記憶のなかで、

 あれほど深く、あれほど静かに、魂まで削り取った情景はない。


 喪失。

 そして、一人の人間としての、どうしようもない無力。


 もし僕の歴史を書物として編むなら、

 この頁だけは、必ず記されるだろう。

 どれほど他を省いたとしても、

 この一節だけは、逃げ場なく残る。


 だが同時に――

 僕自身が、真っ先に引き裂き、

 焚き捨ててしまいたい頁でもあった。


 語らずにはいられない話ではない。

 語ること自体が、

 傷となる。


 僕は、膝の上で拳を握り締める。

 爪が掌に食い込み、

 確かに「今」にいることだけが、痛みとして残った。


 水路の水が、撫でるような音を立てている。


 剣が交わる音ではない。

 魔術が爆ぜる音でもない。

 戦士の雄叫びも、民の悲鳴も――ここにはない。


 いくら目を伏せても、逃げ場はなかった。

 ここは千年後だ。

 すべてが、すでに過去になった現世。


 僕は、アミナの瞳を見る。


 そこにあるのは、裁くための光ではない。

 知りたいという、無邪気な好奇心でもない。


 ――確かめなければならない、という意思。


 千年の時を越え、

 なお、その結末に立ち会おうとする覚悟だけが、

 静かな息遣いとなって、そこにあった。


 理解しようとするのではない。

 慰めようともしない。


 ただ、

 逃げずに、見届けるつもりなのだ。


 僕は、ゆっくりと拳を解いた。


「君は、アーイシャが逝くよりも、ずっと早く、死んでしまったからな」


「はい。

 最期までお仕えできなかったこと……どうか、お許しください」


「謝らなくていい。

 君を責める者がいるなら、

 僕が、最初にその前に立つ。

 その忠義は、時間に負けない。

 千年経った今も、同じ色をしているよ」


 かつて、この国には、長く続いた戦いがあった。

 大戦――と呼ぶには、あまりに日常に浸透した、静かに、しかし深く民を蝕む争い。


 きっかけは、些細なことだった。

 宗教や政治的対立ではない。

 資源の奪い合いであれば、まだ分かりやすく、理解の余地もあっただろう。


 だが、事はそう簡単ではなかった。


 アルナ・フリール――

 いや、旧名『ナフリーラトゥ・ン=ヌール』で交易商をしていた夫婦がいた。


 砂漠を踏みしめ、隣国と魔道具や鉱石を流通させる商人たち。

 その背には、家業を継ぐことを約束された幼い子どもが寄り添っていた。


 ある日、水が底をついたとき、彼らは隣国近くで水源を見つける。

 夫婦は、幼子のために木の水筒へと水を汲んだ――ただ、それだけのことだった。


 その瞬間、隣国の兵士の目に彼らは映った。

 国境を跨いだ水を、不等に奪う愚か者、略奪者として糾弾される。


 結果、夫婦の首は跳ねられ、僕の国の前へ晒された。


 そして始まった弔い合戦は、後世にまで語り継がれる魔術大戦――

『|千日の炎《アル=ナール・アル=ミル》』となる。


 その戦の炎の中で、多くの民を守り、アミナは死んだ。

 アーイシャよりも、ずっと早く。


「アーイシャは、病だった」


 ほとんど独り言のように、その言葉は零れた。

 誰に向けたものでもない。ただ、過去に落とす石のような呟きだ。


「治癒師、薬師、祈祷師、呪術師――

 考え得る限りの手段と、知識を集めた」


 列挙する声は淡々としていたが、

 その一つ一つが、かつての必死な日々を孕んでいる。


「それでも――」


 言葉の続きは、すぐには出てこない。

 息を吸い込み、胸の奥に溜まった古い空気を、ゆっくりと吐き出す。


「……何も、出来なかった」


「……王国には、その道の熟達者が数多くおられたはずです」

 アミナは慎重に言葉を選びながら、続ける。

「アーイシャ様は、一体どのような病に」


 ――そうだ。

 知識の価値は、金よりも重い。


 知恵が財を生み、知恵が国を富ませる時代だった。

 だからこそ僕は、あらゆる分野の熟達者を、惜しみなく城へ迎え入れた。


 大戦中は、過剰と言われるほどの警護を付けた。

 彼らを失うことは、国そのものを失うことに等しかったからだ。

 事実、戦火によって命を落とした者は一人もいない。


 妥協も、慢心も、見落としもない。

 王国が持ち得るすべてを注ぎ込み、

 アーイシャの病に立ち向かった。


 ――それでも、だ。


「病名は、分からなかった」


 声が、わずかに低くなる。


「ただ、日に日に――

 花が萎れるように、静かに」


 思い出すたびに、時間が逆流する。


「アーイシャは、衰えていった」


 それは、苦しみを訴える類の病ではなかった。

 熱もなく、血もなく、痙攣もない。

 ただ、生きるという営みそのものが、少しずつ――しかし確実に、薄れていく。


 朝の光を浴びても、目を細めることがなくなり。

 好んでいた果実の甘さにも、微笑みを返さなくなった。

 言葉は、まだ在った。

 だがその奥で、何かがすでに、遠くへ行ってしまっていた。


 まるで――

 世界の側が、彼女を手放し始めたかのようだった。


「痛みはなかった。ただ……眠る時間が、増えていった」


 それだけが、唯一の兆候だった。

 眠りは次第に深くなり、長くなり、

 やがて目覚めの方が、例外になっていく。


 僕は、その眠りを破ることが出来なかった。

 王としてでも、死霊術師としてでもない。

 ただ一人の人間として――

 彼女の静けさを、壊す勇気がなかった。


 救えなかったのではない。

 救う、という言葉を。

 最後まで、選び切れなかった。


 水路の水音が、絶え間なく続いている。

 今も、千年前と変わらぬ調子で。


「病について、分かったことは一つだけだ。

 ……薬草を必要とするものでも、呪いの類でもない」


 一拍。


「アーイシャの魔力が、擦り減るように、流れ出ていた。

 その事実だけだよ」


「……魔力が?」


 問いではなかった。

 理解し難い状況を、言葉にせず受け止めるための、呟きだった。


「そんな……

 しかし、アーイシャ様は――」


「ああ。

 彼女は、特別に優れた魔術師でも、前線で戦った過去もない」


 ――けれども。


「アーイシャの最期の日。

 彼女の身体は、魔力を流すための回路が、ほとんど焼き切れた状態だった」


「あり得ないではありませんか!」


 初めて、アミナが声を上げる。

 その残響は水路の水面を滑り、

 やがて底へと沈殿した。


 冷静さを欠いたなら、すぐに詫びを入れる彼女だが、

 言葉は止まらなかった。


「魔術回路が焼き切れるだなんて……

 日常的に魔術を行使しなければ、そうはなりません!

 仮に、魔術を使わざるを得ない状況であったとしても、

 そのまま死に向かうだなんて……そんなこと……まるで――」


 言葉は、そこで途切れた。

 『自殺行為だ』という表現は、最後まで選ばれなかった。


 当然だろう。

 これは――『病』なのだから。


 そう名付けてでもいなければ、納得ができなかった。

 理由を与えなければ、心は簡単に崩れてしまう。


 死に至るその瞬間まで、アーイシャは穏やかだった。

 自ら死を選んだわけではない。

 逃げるためでも、抗うためでもない。


 ただ、「もっと一緒に居たかった」と。

 ただ、「愛している」と。


 それだけを、繰り返した。


 そして最後に――

「私は死んでも、お側におります」と。


「……」


 ――少しだけ、目眩がする。

 触れないようにしていた記憶に、あまりにも長く身を浸してしまった。


 僕は、こめかみを押さえる。

 その仕草を見て、アミナはようやく我に返ったようだった。

 慌てて姿勢を正し、言葉を選び直す。


「申し訳ありません、イズヒト様……!

 本来あるべき配慮を欠いておりましたこと、

 深く、反省しております」


「気にする必要はない。

 それは――君にも、知ってほしかった真実だ」


 静かに、そう告げる。


「僕の中にだけあった十字架を、

 君は今、共に背負った。

 その選択に……感謝する」


 アミナは神殿の外壁で跪き、

 その言葉を、頭を垂れて受け止めた。


 アーイシャの最期を語ったからといって、

 心が軽くなったわけではない。

 むしろ――

 改めて、今の僕が、

 何のためにここに在るのか、分からなくなった。


 それでも。


 あれから千年。

 確かに、時間は流れ、

 世界は移ろっている。


 それだけは、否定しようがなかった。


 アミナは立ち上がり、

 再び外壁に腰を下ろす。

 街へと伸びる水路を見つめながら、

 ぽつりと、呟いた。


「アーイシャ様は……

 戦場でたおれたわけでは、ありませんでした」


 言葉を選ぶというより、

 確かめるような声音だった。


「それだけが……

 私にとっての、せめてもの救いです。

 大戦の終結後、

 ほんのわずかな時であっても――

 お二人で過ごされていたのであれば……良かった」


「ああ」


 頷きかけて、続ける。


「君のおかげだよ、アミナ。

 君の功績が、戦争を終わらせ――

 アーイシャを……」


 そこで、言葉が喉の奥に詰まった。


 ――悪寒。


 視界が、わずかに二重に揺れる。


 冷や汗が、背を伝う感覚。

 何故だ。


 戦争は、終わった。

 アーイシャは、病で、死んだ。

 穏やかに。

 消え入るように。


 そのはずだ。

 間違いない。


 ――なのに。


 記憶の底で、

 金属が擦れる音。

 悲鳴。


 肉を断ち、

 血が飛び散る情景。


 炎の中で――


 アーイシャが、

 死んでいる。


 この記憶は、なんだ――。

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