循環の街で、静かに【Ⅱ】
神殿の外壁は、座るために造られたものではない。
だが、長い年月のあいだに、人の体重と沈黙を受け入れる形へと、少しずつ削られていた。
僕たちはそこに腰を下ろし、足元に張り巡らされた水路を見下ろす。
水は規則正しく、しかし機械的ではない。
石と石の間を縫い、街の呼吸に合わせて速さを変え、
ときに、考え込むようにわずかな躊躇を見せながら、曲がり角で光を溜める。
神殿から伸びる水路は、街の中心へ向かうほど細くなり、
やがて市場の喧騒の下へと潜り込んでいく。
信仰は、声高に主張されるものではない。
こうして、日常の底を静かに支える形で存在している。
水路の縁には、苔とも草ともつかぬ植物が生えている。
その根は水に浸かりながら、決して溺れない。
この街の生き方を、最も正確に体現しているのは、彼らなのかもしれない。
「……なるほど。
カレン様が、そのようなことを」
アミナは顎元に指を添え、
状況をひとつずつ並べ直すように、静かに言葉を反芻する。
「まずは……ご無事で、何よりです。イズヒト様。
お守りできなかったこと、どうかお許しください」
「いいよ。想定外は、至らなさではない。
世界が、こちらの想像より少し先を歩いただけだ」
視線を水の流れに落としたまま、静かに続ける。
「君が現世に居てくれる。
その奇跡に比べたら、些細なことだよ」
その言葉を受け取り、アミナはゆっくりと目を伏せた。
魔道具を託しただけで事足りると判断してしまった後悔と、
己の役目を果たせなかったという自責が、そこにあるのだろう。
結果として、僕の手足は吹き飛び、
僕の貞操は――
……いや、やめよう。
考えるのは、ここまでだ。
思考には、触れてはいけない傷がある。
それを無理に確かめるのは、勇気ではない。
僕はナヴァリスの実を一つ、かじった。
アル・ナフリールの神殿では、祈りの前に、必ずこの果実を口にする習慣がある。
魔術師や学徒は、思考を鎮めるために研究室へ置き、
街の者は、眠れぬ夜や、長旅の前に食べる。
特別な効能を期待するというより、
そうしてきたという事実を、体に思い出させるための行為だ。
少しだけ――
本当に、少しだけ、心が落ち着いた気がした。
「……朝。
太陽も、まだ静まっている明朝。
カレンの目を盗んで、秘宝商会に行った」
唐突な独白に、アミナは小さく首を傾げる。
「はい」
「“眠りを繋ぐ鎖”だ。
上等な魔道具が、どうしても必要だった」
水路の光が、ゆっくりと揺れる。
「カレンを――
夢の世界に、閉じ込めるために」
アミナの喉が、かすかに鳴った。
息を呑んだ音ではない。
言葉を飲み込む準備の音だ。
「全財産をはたいた。
それでも足りなかったから、
僕は精算台に、頭を叩きつけたよ」
淡々と告げる。
武勇談でも、自嘲でもない。
「……なんて、頼んだと思う?」
返事はなかった。
当然だろう。
正解など、存在しない。
僕は、虚空を見つめたまま、続ける。
「――勘弁して下さい、って」
それは命乞いでも、交渉でもなかった。
ただの、懇願だった。
「……いつからだろうね。
僕の頭は、こんなにも軽くなってしまった」
水の音が、遠くなる。
「僕の理性も、尊厳も、
重さと呼べるものは――」
一拍。
「全部、
カレンに奪われた魔力の中に、置き忘れてきたのかもしれない」
「……」
アミナは眉間に、わずかに皺を寄せた。
複雑な内心が、そのまま表情として表に出ている。
僕のこの有り様を、
笑えばいいのか、
それとも泣けばいいのか――
本気で、判断しかねているのだろう。
試しているわけじゃない。
同情も、気遣いも、採点も、必要ない。
好きに言ってくれていい。
裸の王になるつもりは、なかった。
――いや。
もう、なっているのか。
物理的に。
アミナは、わずかに視線を逸らし、
声色を一段だけ明るくした。
「……では、その魔道具で
カレン様の封印には、成功したということですね!」
「……はは」
乾いた笑みが、喉の奥からこぼれ落ちた。
笑ったつもりはなかったが、
結果として、それは笑いになった。
「眠ったカレンを、鎖で縛り上げて……
計画は順調だと、そう思ったよ」
水路の流れを見つめたまま、続ける。
「完璧じゃないにせよ、
最悪の事態は避けられる。
……そう、信じた」
一拍。
「だが、あいつは――」
そこで、言葉を止めた。
続きを語るには、
まだ、ナヴァリスが足りなかった。
今朝の情景が、
水底の沈殿物をかき混ぜるように、脳内へ浮かび上がる。
僕は、反射的に両手で頭を抱えた。
薄いシーツ一枚に包まれ、
穏やかな寝息を立てるカレン。
慎重に、音を殺しながら、
“眠りを繋ぐ鎖”を、その身体へ巻きつけていく。
冷たい金属が肌に触れるたび、
彼女は微かに身じろぎをしたが、目を覚ます様子はない。
鎖の終点を結ぶ。
瞬間、
柔らかな光が、寝台を包み込んだ。
――終わった。
胸の奥で、張り詰めていたものがほどける。
カレン。
どうか、幸せな夢を。
できることなら、そのまま――永遠に。
両手を合わせ、
短い祈りを捧げる。
やがて、魔道具の作動音が消える。
成仏――
その言葉に、安堵して、
僕は、ゆっくりと目を開けた。
そして――
ベッドに横たわるカレンと、
目が、合った。
頬は赤く染まり、
吐息は、異様な熱を帯びて荒い。
理解するより早く、
悟ってしまった。
この女は、
最初から、眠ってなどいなかった。
琥珀色の瞳が血走り、
その奥で、歪んだ歓喜が脈打っている。
湿り気を帯びた声が、
絡みつくように、耳へ流れ込んだ。
「昨日のイズヒト様が……
脳内から、どうしても消えなくて……」
息を吸う音すら、執着に満ちている。
「一晩中、
眠らずに、考えていたのです……!」
肩が上下し、
鼓動が、そのまま可視化されたかのようだった。
「まさか……
イズヒト様の方から……
鎖のプレイを、求めてくださるだなんて……」
その言葉が、
僕の精神に、決定的な一撃を与えた。
理性が、音を立てて剥がれ落ちる。
「カレンは……
何回戦でも、いけますよ……?」
――あああああああああああっ!
叫びは、喉を通る前に、
意識の奥で炸裂した。
現実の水路が、
その共鳴を受けたように、波紋を広げる。
「ああああああああああっ!」
「イズヒト様、落ち着いてください!」
次の瞬間、
肩を強く掴まれ、
視界が、現在へと引き戻された。
アミナの声だ。
神殿の外壁。
水路の音。
昼の街。
僕は、荒い呼吸のまま、
ようやく――
現実へ、帰還した。
赤い瞳が、
ほんのわずかずつ、
場に降り積もった沈黙を数えていく。
「では……
カレン様の封印には、至らなかった、ということですね」
「……ああ」
否定の余地はなかった。
事実は、簡潔な形を好む。
「カレン様は、今――
どちらに?」
「僕を、裏切っていなければ……
家にいるよ」
その答えに、
アミナは小さく首を傾げた。
それも当然だろう。
あれほど歪み切った愛と執着を持つ存在が、
どうして僕の単独行動を許容するのか。
今日、外へ出ることについても、
カレンは同行すると言って、聞かなかった。
だから――
「……カレンを、脅したよ」
声は、思ったより落ち着いていた。
「もし今日、
お前が一歩でも家を出たなら――
僕は、手当たり次第の女性と、毎晩を共にするって」
「……なんと、惨い」
アミナの言葉は、糾弾ではなく、
事実の確認に近かった。
「虚しいけれど、僕がカレンにダメージを与えられる手段は、
もう、それしか残っていなかった」
誇りでも、勝算でもない。
ただの、消耗した選択肢だ。
短く、息を吐く。
「歪な愛には……最初から、亀裂がある。
それは壊すためではなく、愛を確かめ直せるようにだろうね」
水路を流れる水に、視線を落としたまま続ける。
「……そこが、
僕が突ける、
カレンの――
唯一の弱点さ」
僕の最終手段を、
それでも“戦術”として受け取るべきなのか――
アミナは、明確な答えを見出せずにいた。
たとえ嫉妬の末に、
カレンに殺されることになろうとも。
子種だけを遺し、
それを呪いとして扱うという発想。
失望されても、
何ひとつ不思議ではない。
――それほどまでに、
僕は追い詰められている。
これは、対抗手段ではない。
切り札ですらない。
ただの、抵抗だ。
アミナは、
小さく丸まった僕の背中を見つめながら、
言葉を慎重に選ぶようにして、続けた。
「イズヒト様……
あの方は、なぜ――
己の心に罅を入れてまで、
イズヒト様を求めるのでしょうか」
「……知らないよ」
僕は、少し投げやりに答える。
「卵から孵った雛鳥が、
最初に目にした顔――
それが、たまたま僕だっただけじゃないのか」
水路を流れる水が、
光を反射して、ゆらりと揺れる。
「誰であれ……
召喚者に、心酔したに違いないさ。
アレは、人の願いを餌に生まれた魔物だよ」
「――いいえ。
それは、あり得ません」
言下に否定された。
迷いも、躊躇もない。
それは反論ではなく、
裁定だった。
「カレン様は、召喚されてすぐ、
アーイシャ・ラフティマ・レジットを名乗りました」
アミナは、事実だけを掬い上げるように言葉を並べる。
「仮に彼女が――
召喚者の願いを利用し、
演じ、偽装し、
その代価として愛を要求する魔物だったとしましょう」
思考を切り分け、
逃げ場を塞ぐように。
「それならば、なおさら不可解です」
赤い瞳が、こちらを射抜く。
「なぜ――
王妃ではない、
“別の女性”の形をしていたのでしょうか」
「……そんなの」
言葉が、荒れる。
「カレンが、想定外の失敗をしただけかもしれないだろ」
召喚の過程で、外見情報が歪んだ。
男を騙すのに、都合の良い姿を選んだ。
理由など、いくらでも付けられる。
――理解したいとも、思わない。
もはや、耳を塞ごうとすらしている僕を、
アミナの赤い瞳は逃さなかった。
「想定外は、至らなさではない。
世界が、こちらの想像より少し先を歩いただけだと、
イズヒト様は、そう仰せでした。
その理は、カレン様にも、等しく当てはまることかと存じます」
静かに、しかし確信をもって、彼女は言う。
「確かに、カレン様にも明確な過ちはございました」
一拍。
「それは――
アーイシャ様が授けてくださった、
私の名。
『ヌリ』を、口になさらなかったことです」
水路を流れる水音が、
その沈黙を埋める。
「見た目を作り変えることは、できても――
心にまでは、及びません」
淡々と、断定する。
「仮に、魔物の権能によって、
千年前の記憶が複写されていたのだとしても――」
赤い瞳が、わずかに細まる。
「なお、この過ちは不可解です」
そして、最後に。
「カレン様には……
確かに、
“カレン様としての輪郭”が、あったのです」
『ヌリ』の不在は、記憶の欠落ではない。
人格の独立を示す、決定的な証拠――。
だからこそ、不気味だった。
もし、外見だけが異なり、
中身は記憶の中のアーイシャそのものであったなら。
カレンは、記憶を宿した魔物の一種である――
そう結論づけることが出来た。
だが、そうではない。
否定されたのは仮説ではなく、
僕が縋ろうとしていた“分かりやすさ”そのものだった。
そして、
それを理解しているからこそ――
アミナは、すぐには言葉を続けなかった。
ゆっくりと、息を整える。
それは、
あまりにも重い言葉を差し出すための、
明確な“間”だった。
「これから口にする問いは――」
静かな声だった。
「イズヒト様の記憶を、
最も痛む頁へと導くものです」
喉が、ひくりと鳴る音がした。
覚悟を飲み込む音だ。
「もし、これが許されざる無礼であるならば……」
一拍。
「どうか、私の首をお取りください」
そして、
逃げ道を残さず、
祈ることもせず、
ただ、真っ直ぐに。
「アーイシャ様の最期について――
お聞かせいただけないでしょうか」




