循環の街で、静かに
『アル・ナフリール』は、日が沈むたびに祈りを思い出す街だ。
人々が意識せずとも、暮れゆく光の底で、古い信仰だけが呼吸を始める。
水はこの街で止まり、そして再び天へ向かう。
大地に染み込み、蒸発し、雲となり、やがて雨として還る。
それは死者の魂が天へ昇り、巡り巡って新たな命を授かるという、この地の神話と同じ円環を描いている。
終わりは断絶ではない。
喪失は、ただ次の形へ移ろう合図に過ぎない。
この街では、そう教えられてきた。
僕の在るこの街は、千年前と今とで、わずかに名を違えている。
旧名は――
『ナフリーラトゥ・ン=ヌール』。
神に返される光が集う場所。
祈りと死と再生が、等価に扱われる地。
その意味を、今の住民がどれほど理解しているかは分からない。
現在名のアル・ナフリールは、その長い名が摩耗し、削られ、日常の発音に耐えられる形へと変質した俗称だ。
神話が言葉を失い、言葉の抜け殻だけを街が背負い続けた結果とも言える。
――神は、ここから去ったのだろうか。
もし、この街に今なお神話が息づいているのなら。
祈りと循環が真実であるなら。
カレンという悪霊を、
この街が許すはずがない。
それとも神々は、平和な時代に満足し、
遠い地へと――
バカンスにでも出かけてしまったのだろうか。
どうか、その背に、僕を乗せてくれ。
翼も、かつて手にした財もない。
それでも、肩を揉みながら、
下界で起きている取るに足らない噂話を聞かせることくらいなら、きっと出来ましょう。
――欲しいのは自由ではありません。
選択肢なのです。
選び続けることが許される、
ほんのわずかな余白。
間違えることすら、咎められない場所。
僕は祈りを捧げるように、
あるいは、取り返しのつかない罪を告白するように、
神殿の前で跪いた。
否。
これは祈りではない。
懺悔ですらない。
――助けを、乞うているのだ。
門は、低い。
意図して、そう造られている。
誰であっても――
たとえ王であっても、
ここへ入るためには、頭を下げねばならない。
神殿は、それを強制しない。
ただ、拒まない形をしているだけだ。
屈む者を選別せず、
立ったままの者を追い返すこともしない。
それでも。
僕は、地面に頭を埋めるように、
脳天を石畳へ擦りつけ、
縋るように声を絞り出す。
「循環の街で、それを拒絶する死霊に――
どうか、相応しい裁きを……!」
見る者がいれば、
今の僕は、敬虔な信徒などではなく、
一周回って、ただの罰当たりに映るだろう。
だが、構わない。
遠くで、鉄槌の音が鳴っている。
剣でもない。
農具でもない。
水路の蓋を打ち直す、鈍い音だ。
この街の昼の仕事は、
壊れないものを信じないことから始まる。
神殿の布に描かれた線は、
星の運行を写したものだと伝えられているが、
昼のあいだ、それを信じる者はいない。
つまり――
そういうことだ。
信仰は、夜にだけ、
正しい顔をする。
「……」
鼻水を啜り上げる音が、石壁に吸われて消えた。
刻まれた無数の細い溝が、音を砕き、声を迷わせ、
やがてそれらを、水音へと変えてしまう。
涙を禁じているのではない。
ここでは、祈りは言葉である必要がない――
その思想が、建築として固定された結果だ。
嗚咽も、沈黙も、等しく受け取られる。
声を失った者のために、この神殿は造られている。
だが。
確かに、背後で足音がした。
「イズヒト様。
お待たせいたしました」
地につけたままの頭を、
石を引きずるようにして振り返る。
その、あまりに無様な姿を捉えた小柄な赤い瞳の少女は、
リボンでまとめたサイドテールを、かすかに揺らして微笑んだ。
「一体、どのような祈りを捧げていらしたのですか?
神々も、さぞ困惑なさっていることでしょう」
「……アミナ――」
名は、言葉というより、
こぼれ落ちたものだった。
本当は、見せるつもりなどなかった。
この姿も、この弱さも、
王である以前に、彼女の主である以上、晒すべきではなかった。
だが――
もう、堪えきれなかった。
絡まり、張り詰め、
いつ切れてもおかしくなかった緊張と恐怖の糸が、
音もなく、ぷつりと断ち切れる。
それを合図にするように、
涙が、静かに溢れ出した。
「アミナァァァ……」
「イ、イズヒト様……!?
いったい、どうなされたのですか?」
この場に彼女を呼び寄せたのは、僕自身だ。
事情も知らされず、
祈りの最奥で、主が崩れ落ちていれば――
困惑しない方がおかしい。
だから、理由を削る。
説明を捨てる。
感情だけを、言葉に押し込める。
「……カレンが、怖いんだ」
それでも、足りなかった。
恐怖は一行では収まらない。
理屈でも、記述でも、整理でもない。
「ただ……」
息が、喉で詰まる。
「怖い……!」
「え――」
アミナの声が、そこで止まった。
それから、
目元を腫らした僕の瞳と、静かに視線を重ねる。
アミナは、思案するようにわずかに首を傾げた。
何か名案が浮かんだわけではない。
彼女はただ、胸の前で抱えていた果実へと、自然に目を落とした。
クリーム色の、ひらひらとした薄皮を持つ果実。
指先に触れるだけで破れてしまいそうなほど、柔らかい。
神殿を抜ける風に煽られ、
表面に残った霜のような微細な粉が、ふわりと舞った。
それは花弁が散る様にも、灰が落ちる様にも似ていた。
アミナは、それを果実としてではなく、
ひとつの現象として眺めるように、しばし目を留める。
そして、
ようやく穏やかに、微笑んだ。
「“ナヴァリスの実”を、お持ちいたしました」
声は低く、落ち着いている。
励ましでも、慰めでもない。
「このような折には……」
一拍。
「よく、効きます」
僕は鼻水を啜り上げ、
涙で濡れた頬を、乱暴に腕で拭った。
みっともなさを誤魔化すように、
それでも誤魔化しきれないまま、
小さく、頷く。
言葉は出なかった。
出せば、きっと崩れてしまう。
だから、
ただ――
無言で、それを受け取った。
第二章 記憶の頁をめくって――
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