表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
24/48

循環の街で、静かに


『アル・ナフリール』は、日が沈むたびに祈りを思い出す街だ。

 人々が意識せずとも、暮れゆく光の底で、古い信仰だけが呼吸を始める。


 水はこの街で止まり、そして再び天へ向かう。

 大地に染み込み、蒸発し、雲となり、やがて雨として還る。

 それは死者の魂が天へ昇り、巡り巡って新たな命を授かるという、この地の神話と同じ円環を描いている。


 終わりは断絶ではない。

 喪失は、ただ次の形へ移ろう合図に過ぎない。

 この街では、そう教えられてきた。


 僕の在るこの街は、千年前と今とで、わずかに名を違えている。

 旧名は――

『ナフリーラトゥ・ン=ヌール』。


 神に返される光が集う場所。

 祈りと死と再生が、等価に扱われる地。

 その意味を、今の住民がどれほど理解しているかは分からない。


 現在名のアル・ナフリールは、その長い名が摩耗し、削られ、日常の発音に耐えられる形へと変質した俗称だ。

 神話が言葉を失い、言葉の抜け殻だけを街が背負い続けた結果とも言える。


 ――神は、ここから去ったのだろうか。


 もし、この街に今なお神話が息づいているのなら。

 祈りと循環が真実であるなら。


 カレンという悪霊を、

 この街が許すはずがない。


 それとも神々は、平和な時代に満足し、

 遠い地へと――

 バカンスにでも出かけてしまったのだろうか。


 どうか、その背に、僕を乗せてくれ。

 翼も、かつて手にした財もない。

 それでも、肩を揉みながら、

 下界で起きている取るに足らない噂話を聞かせることくらいなら、きっと出来ましょう。


 ――欲しいのは自由ではありません。

 選択肢なのです。


 選び続けることが許される、

 ほんのわずかな余白。

 間違えることすら、咎められない場所。


 僕は祈りを捧げるように、

 あるいは、取り返しのつかない罪を告白するように、

 神殿の前で跪いた。


 否。


 これは祈りではない。

 懺悔ですらない。


 ――助けを、乞うているのだ。


 門は、低い。

 意図して、そう造られている。


 誰であっても――

 たとえ王であっても、

 ここへ入るためには、頭を下げねばならない。


 神殿は、それを強制しない。

 ただ、拒まない形をしているだけだ。

 屈む者を選別せず、

 立ったままの者を追い返すこともしない。


 それでも。


 僕は、地面に頭を埋めるように、

 脳天を石畳へ擦りつけ、

 縋るように声を絞り出す。


「循環の街で、それを拒絶する死霊に――

 どうか、相応しい裁きを……!」


 見る者がいれば、

 今の僕は、敬虔(けいけん)な信徒などではなく、

 一周回って、ただの罰当たりに映るだろう。


 だが、構わない。


 遠くで、鉄槌の音が鳴っている。

 剣でもない。

 農具でもない。

 水路の蓋を打ち直す、鈍い音だ。


 この街の昼の仕事は、

 壊れないものを信じないことから始まる。


 神殿の布に描かれた線は、

 星の運行を写したものだと伝えられているが、

 昼のあいだ、それを信じる者はいない。


 つまり――

 そういうことだ。


 信仰は、夜にだけ、

 正しい顔をする。


「……」


 鼻水を啜り上げる音が、石壁に吸われて消えた。

 刻まれた無数の細い溝が、音を砕き、声を迷わせ、

 やがてそれらを、水音へと変えてしまう。


 涙を禁じているのではない。

 ここでは、祈りは言葉である必要がない――

 その思想が、建築として固定された結果だ。


 嗚咽も、沈黙も、等しく受け取られる。

 声を失った者のために、この神殿は造られている。


 だが。


 確かに、背後で足音がした。


「イズヒト様。

 お待たせいたしました」


 地につけたままの頭を、

 石を引きずるようにして振り返る。


 その、あまりに無様な姿を捉えた小柄な赤い瞳の少女は、

 リボンでまとめたサイドテールを、かすかに揺らして微笑んだ。


「一体、どのような祈りを捧げていらしたのですか?

 神々も、さぞ困惑なさっていることでしょう」


「……アミナ――」


 名は、言葉というより、

 こぼれ落ちたものだった。


 本当は、見せるつもりなどなかった。

 この姿も、この弱さも、

 王である以前に、彼女の主である以上、晒すべきではなかった。


 だが――

 もう、堪えきれなかった。


 絡まり、張り詰め、

 いつ切れてもおかしくなかった緊張と恐怖の糸が、

 音もなく、ぷつりと断ち切れる。


 それを合図にするように、

 涙が、静かに溢れ出した。


「アミナァァァ……」


「イ、イズヒト様……!?

 いったい、どうなされたのですか?」


 この場に彼女を呼び寄せたのは、僕自身だ。

 事情も知らされず、

 祈りの最奥で、主が崩れ落ちていれば――

 困惑しない方がおかしい。


 だから、理由を削る。

 説明を捨てる。

 感情だけを、言葉に押し込める。


「……カレンが、怖いんだ」


 それでも、足りなかった。


 恐怖は一行では収まらない。

 理屈でも、記述でも、整理でもない。


「ただ……」

 息が、喉で詰まる。

「怖い……!」


「え――」


 アミナの声が、そこで止まった。


 それから、

 目元を腫らした僕の瞳と、静かに視線を重ねる。


 アミナは、思案するようにわずかに首を傾げた。

 何か名案が浮かんだわけではない。

 彼女はただ、胸の前で抱えていた果実へと、自然に目を落とした。


 クリーム色の、ひらひらとした薄皮を持つ果実。

 指先に触れるだけで破れてしまいそうなほど、柔らかい。


 神殿を抜ける風に煽られ、

 表面に残った霜のような微細な粉が、ふわりと舞った。

 それは花弁が散る様にも、灰が落ちる様にも似ていた。


 アミナは、それを果実としてではなく、

 ひとつの現象として眺めるように、しばし目を留める。


 そして、

 ようやく穏やかに、微笑んだ。


「“ナヴァリスの実”を、お持ちいたしました」


 声は低く、落ち着いている。

 励ましでも、慰めでもない。


「このような折には……」

 一拍。

「よく、効きます」


 僕は鼻水を啜り上げ、

 涙で濡れた頬を、乱暴に腕で拭った。


 みっともなさを誤魔化すように、

 それでも誤魔化しきれないまま、

 小さく、頷く。


 言葉は出なかった。

 出せば、きっと崩れてしまう。


 だから、

 ただ――


 無言で、それを受け取った。


 


第二章 記憶の頁をめくって――

—————————————————————————————————


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ