حَتّىٰ بَعْدَ الْمَوْتِ، أَنَا مَعَكَ
「こうすれば、イズヒト様は――
言葉でも、物理的にも、逃げられませんね♡」
滴り落ちるような声音だった。
冷酷さとも殺意とも違う。
そこにあったのは、ただ恋に身を焼かれた者だけが持つ、過剰な体温だ。
拒絶されることすら、愛の一形態として咀嚼してしまう。
そんな歪んだ誠実さが、甘く、湿った声となって部屋に満ちる。
理解は、遅れてやって来た。
――痛みと、ほぼ同時に。
「あ、ああ……っ」
喉から零れた声は、悲鳴と呼ぶにはあまりに掠れていた。
熱がない。
あるのは、切断面から一気に流れ出す感覚だけだ。
自分の身体が、もはや自分のものではなくなったという、静かな確信。
「ああああああっ……!」
叫びは遅れ、痛みは追い越し、
意識だけが取り残される。
視界の端で、カレンが微笑んでいた。
まるで、正しいことを成し遂げた者の顔で。
悪い夢を見ているようだった。
ここは、魔術演舞の舞台ではない。
幻影魔術が裂けた肉を繋ぎ止めることも、
光が恐怖をやさしく覆い隠してくれることも、ここにはない。
あるのは、手加減のない現実だけだ。
無造作に、逃げ場なく突きつけられる――現実。
「カレン……!
自分が何をしているのか、分かっているのか……」
荒い息の合間から言葉を搾り出す。
視線だけは刃のように向けたつもりだったが、
彼女は怯むことも、咎められた顔をすることもなかった。
ただ、小首を傾げる。
「イズヒト様こそ。
約束を破らないでいただけませんか?」
その声音には、非難も怒りも含まれていない。
あるのは、約束が守られると信じて疑わない者の、当然の確認だけだ。
「今日の私の頑張りは、
この瞬間を待ち焦がれてのものなのですよ?」
――理解したくない、という感情が先に立つ。
「……なら、お前の献身は」
言葉が、喉の奥で軋んだ。
「すべて、そのあさましい欲望が形を取っただけで、
僕への忠誠ではなかったということか……!」
「いえいえ」
即答だった。
否定に一切の迷いがない。
「イズヒト様を庇うのも、
イズヒト様の代わりに死ぬのも、
イズヒト様より深く痛みを背負うのも――」
彼女は指折り数えるように、穏やかに続ける。
「すべて、イズヒト様の勝利のためです」
その言葉と同時に、花が咲き誇るような笑みが差し出された。
眩しく、疑いを許さない、純度の高い微笑。
「この魂の隅々まで、
すべてをイズヒト様に捧げているのですよ?」
だから、と。
その言葉は、口にされなかったが、確かにそこにあった。
「――少しくらい。
カレンに褒美を与えてくれても、良いとは思いませんか?」
理解した。
カレンは、突然狂ったのではない。
最初から、ずれていたのだ。
ただ、その歪みが、
ようやく正確な形で、露わになっただけのこと。
彼女の忠誠は、狂気を内包している。
信仰と愛情と欲望が、区別されぬまま溶け合った、
ひとつの、危険な完成形だ。
このまま現世に留めていれば、
いつか――確実に。
僕自身が、その歪みに絡め取られ、殺される。
――だから、ここで消す。
決意を悟られぬよう、
言葉を整えながら、ゆっくりと上半身を起こした。
「お前は……なんなんだ」
問いというより、確認だった。
「――正妃、王妃、妻、嫁……」
カレンは、楽しげに数え上げる。
「いろんな肩書きで呼ばれましたが、
どれも等しく、どうでも良いものです」
即座に、結論が落とされる。
「私は、あなたを誰よりも愛する者。
ただ、それだけですよ?」
胸の奥で、冷たいものが沈んだ。
「僕は、お前のように歪んだ存在を、
側に置いた覚えはない」
吐き捨てるように言った。
情を切り落とすための、言葉だった。
「酷いなあ」
それでも彼女は、傷ついた様子すら見せない。
「私は、イズヒト様に呼ばれたから、
現世にまで迎えに来たというのに」
――なら。
僕は、ポケットへと手を入れた。
指先が、硬く冷たい感触を掴む。
アミナから託された、赤い秘石。
緊急時のための、最後の楔。
「元いた世界に、還れ」
言葉を、噛み締める。
「……バケモノ女が」
魔力を、身体の底から押し上げる。
血の代わりに流れるかのような力を、
赤い秘石へと、強引に注ぎ込んだ。
これは、情ではない。
判断だ。
忠臣アミナと共に、
この存在を、討つ。
柴色の魔力が、稲妻のように迸る。
心臓から腕へ。
腕から、秘石へ。
意思と魔力が、完全に重なった――その瞬間。
「……はあ」
カレンは、小さく溜め息をついた。
同時に、雨が降り注いだ。
身体に纏わりつくような、
重く、粘つく感触。
生温かく、
赤黒い色を帯び、
鉄の匂いを孕んだ雨。
「……へ?」
間の抜けた声が、喉から零れ落ちる。
違う。
これは、雨じゃない。
分かっていた。
最初から、理解していた。
ただ――
それを、認めることを拒んだだけだ。
視界が、赤に染まる。
血飛沫を浴びながら、
カレンは、ちぎれた僕の腕を抱いていた。
まるで、壊れた宝物を扱うかのように。
慈しむように。
大切そうに。
そして。
切断されてもなお、
赤い秘石を固く握りしめていた、
僕自身の手を――
彼女は、ゆっくりと、
指一本ずつ、解いていった。
そして、僕の行動さえ――
最初から“愛の想定内”であったかのように。
カレンは、労わるような声音を落とした。
「ごめんなさい。
……痛かったですよね」
「ひ……」
痛みという感覚は、すでに遠い。
代わりに身体を支配していたのは、
理解の及ばない力と、逃げ場のない恐怖だった。
僕は、ただ震えることしかできない。
「でも、駄目ですよー」
柔らかく、諭すように。
「こんな物で、“我が家”に他の女性を呼ぼうなんて。
不倫ですよ。不倫」
指先で、赤い秘石を摘まみ上げる。
部屋の明かりに透かし、
内部に残った魔力の名残を確かめるように眺めてから――
低く、鼻で笑った。
そして、握り潰す。
乾いた音と共に砕けた石は、
赤い光の欠片となって床へ散り、
血溜まりの中へ、静かに溶けていった。
カレンは、一歩。
さらに、もう一歩。
逃げ場を確かめるように、
床を踏みしめながら距離を詰める。
制服を脱ぎ捨て、
下着すら躊躇なく落とし、
一糸まとわぬ姿のまま――
彼女は、僕の上に覆い被さった。
「これ以上怪我したら、
本当に死んじゃいますからね」
右手に、淡い緑の光が宿る。
「【回帰の光】」
治癒の魔術が、
断たれた手足の縁を、縫い留めるように這い、
流れ続けていた血だけを、確実に止めていく。
――だが、それ以上は、癒やされない。
失われたものを取り戻すための魔術ではない。
ただ、“生かすためだけ”の処置。
死なせないための、最低限。
それを終えると、
カレンは、はにかむように微笑んだ。
「明日までには、
ちゃんと、全部元通りにしますから」
それは約束だった。
逃げ道のない、優しい宣告だった。
彼女は僕の自由を否定し、
“殺す”よりも、“生かして管理する”ことを選んだ。
選び続ける“王”に対する、
最悪のカウンターを示すように。
「目的は、なんだ……」
喉を震わせ、問いを投げる。
「僕とお前が交わったところで、
お前はもう死んでいる!
子供など、出来るはずが――」
言葉は、最後まで届かなかった。
カレンは、黙らせるように僕の唇を奪う。
時間が止まったかのような、短い沈黙。
唇が離れた後、彼女は静かに口を開いた。
「だから。
最初から、言っているじゃないですか」
まるで、何度も説明したことを思い出させるように。
「現世でもう一度、生きる理由があるとすれば。
それは――」
迷いはない。
疑問もない。
確信だけを、言葉にする。
「あなたの側に、居ることです」
「ふざけるな……!」
怒声が、喉を引き裂く。
「お前がアーイシャでないことなど、
もう分かっている!
お前は、僕の忠臣をアミナ“さん”と呼んだ!
そんな呼び方――彼女は、決してしない!」
「ああ……」
カレンは、一瞬だけ思案する素振りを見せた。
そして、何かを諦めたように。
あるいは、どうでもよくなったように。
開き直った笑みを浮かべる。
「そうなんですか」
――じゃあ。
軽やかに、続ける。
「なんて、お呼びしていたんですか?
アーイシャ・ラフティマ・レジット様は」
「貴様ぁぁぁぁぁぁぁ!」
怒りの熱が、喉を焼く。
その一言で、
自分が“名を騙っていた”だけだと、
白状したも同然だった。
分かっていた。
最初から、分かっていた事実だ。
それでも。
あまりにも軽々と、
あまりにも無邪気に吐き捨てられ、
理性が、音を立てて軋んだ。
目の前の邪悪を滅ぼすため、
魔術を練り上げる。
魔術紋が形を成そうとした、その瞬間。
――カレンが、ただ指先を弾いた。
それだけで、
僕の魔術は、紙屑のように霧散する。
ならば、残るものはひとつだけだ。
力が通じないのなら。
魔術が否定されるのなら。
王として、
最後に残された武器で――
血反吐を吐くように、
呪いの言葉を、叩きつける。
「僕は、屈しない……!
お前にどんな目的があろうと、必ず――必ず、お前を殺してやる!」
叫びは、誓いというより祈りに近かった。
「では」
カレンは、まるで会話の流れを整理するように、穏やかに言った。
「私は、それを止めましょう」
その声音に、悪意はない。
むしろ、慈しむようですらあった。
「イズヒト様が求めているのは、
死霊すら殺すとされる魔術書――
『救済聖書』ですよね」
胸の奥が、ひくりと震える。
彼女は、すでに知っている。
僕の“切り札”を。
カレンは、名案を思いついた子供のように微笑んだ。
「でしたら。
私が、その魔術書を――
破壊してしまう、というのはどうでしょう?」
「お前は……!
どこまで、僕を……!」
「現実を、教えているだけです」
即答だった。
「私がいなければ、イズヒト様は力不足。
この世界で、選び続けることも出来ない」
淡々と。
事実だけを、積み上げる。
「だから――
私に、依存するしかないんですよ」
言葉は刃ではない。
それでも、確実に心臓へ届く。
「寄り添い合いましょう?」
一拍。
「千年前みたいに」
その一言で、
逃げ場は、完全に塞がれた。
ゆっくりと、床へ押し倒される。
血溜まりが、波紋を描いて広がる。
その波紋に溶け込むように、
カレンの気配が、耳元まで近づいた。
「私は……」
吐息が、肌を撫でる。
「イズヒト様がいれば、
他には、何もいらない」
唇が、耳に触れる。
歯が、軽く、確かめるように噛んだ。
そして。
愛を捧げるように、囁く。
「حَتّىٰ بَعْدَ الْمَوْتِ، أَنَا مَعَكَ」
――その瞬間。
意識が、静かに沈み始める。
魔術ではない。
呪いでもない。
ただ。
現実から目を逸らすための、
人間として、最後の選択だった。
僕は、目を閉じる。
自分の身体の上で、
何が行われているのか――
それを考えることさえ、放棄する。
痛み。
怒り。
体温。
匂い。
快楽。
それらすべてを、
一度、焼き切るように。
意識を断ち、
僕は、暗闇へと沈んだ。
第一章 冷たき生に、死の花束を―― 完
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第一章ありがとうございました。
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