ヌールン・ヤウードゥ・イラ・ッサマーイ
太陽が沈みきる前、空はまだ昼の名残を引きずっている。
乾いた石畳は夕焼けを吸い込み、
赤土の街路はまるで火を内側に宿したかのように鈍く光る。
白壁の家々は、昼の熱を名残惜しそうに吐き出し、ゆっくりと影を伸ばす。
その影は、ただ暗くなるだけではない。
縁には微かな青白い光が宿り、夜の魔術が到来する予兆を、街にひそやかに告げていた。
遠くの尖塔から、祈りの鐘とも角笛ともつかない音が流れ出る。
音は空気に溶け、目に見える波紋となって空を揺らす。
その揺らぎに引かれるように、黄昏色の雲がゆっくりと渦を巻き、空の奥へと回転していく。
太陽が地平に触れた瞬間、奇跡が起きる。
沈みゆくはずの光が砂漠の彼方から逆流し、細い光の帯となって夜空へと吸い上げられるのだ。
人々はそれを「天へ還る光」と呼ぶ。誰もその光に指を向けはしない――神聖さの証として。
夜が訪れる。空は藍から深い紫へと変わり、星々が浮かび上がる。
この世界の星は静止しない。
漂い、街の上空まで降りてきては、ランタンの火と混じり合い、淡く瞬く。
水路を流れる水は月を映さない。
その代わり、水底には過去の記憶が沈んでいて、歩く者の足元にそっと差し出される。
記憶は、砂に埋もれた物語の残響――触れれば、微かに心を揺らす。
夜風が吹く。香辛料と祈り、そしてわずかな魔力を含んだ風。
触れた者は、今日一日の終わりを悟り、同時に、明日がまだ確かに存在していることを知る。
こうして黄昏は夜へと溶けていく。
世界が魔術に最も近づく、短く、しかし永遠にも思える時間の中で。
「イズヒト様!
あの空を駆ける、流星のような蝶は何でしょうか?」
――蝶?
子供のように目を輝かせ、指先を伸ばすカレンを見やる。
「ほう……」
思わず感嘆の声が漏れた。
しかし、あれは蝶などではない。
小さな身体にヒトの顔があり、透明感を帯びた体躯に、ほのかな緑と金の光が差す。
髪や纏う衣は、揺れる草や砂の色を帯び、夜風に薄い翼がはためくたび、街路へ光の粒を撒き散らす。
僕は見上げたまま、言葉を差し出す。
「“エル・カバルの風の精”だよ。
夜だけに輝く、貴重な光景さ」
「綺麗ですね……
どんな子たちなのでしょう?」
「好奇心旺盛で、いたずら好きだ。
でも悪意はない。死した魂を墓まで導いてくれる精霊で、街のガイドも務めてくれる、気の良いやつらだよ」
「やんちゃなのですね……」
「ああ。
前に僕の家に現れたときは、ハエかと思って潰してしまったんだ。
せっかくだから、その羽根を魔術の触媒としてむしり取ったけどね」
瞬間、カレンが金切り声を上げた。
指先で夜風を掻き分け、光の粒が彼女の顔を照らす。
その声は、驚きと呆れが混ざり合った、まるで子供と大人が同時に叫ぶような響きだった。
「ぬぁんてことするんですか!?
あんなに儚い生き物を、潰すだなんて!」
「人様の家に勝手に上がり込むなんて、強盗となんら変わらないよ。
美しいからって許されるわけじゃない」
「イズヒト様は死神ですか、悪魔ですか!」
――まさか、死神と悪魔を足して割ったような女に、非難される日が来るとは。
別に風の精を潰した時に、心が痛まなかった訳ではない。
羽を拝借したのだって、せめてその不運な事故に、価値を見出そうとしたまでのことだ。
それに――
「その触媒は、お前の召喚にも使わせてもらったものだぞ」
「なな……」
それだけで、カレンの荒ぶる心が少し収まった。
口をまごつかせ、必死に感情を抑え込もうとするその様子は、まるで風の精そのものが、軽やかに舞い戻ったかのようだ。
――結果的に現世に蘇ることができたのは、彼ら風の精たちの“屍”のおかげだ。
それを悟ってしまうと、どこか胸の奥で、責任と感謝が同時にざわめいたのだろう。
だからこそ、カレンは複雑な笑みを形作り、短く言葉を落とした。
「それは――仕方がないですね」
カレンからすれば、死後の世界と現世を繋いだ運命的な妖精に違いない。
奇跡の裏側に、物語として美しく配置された存在。
だが、僕の視点では違う。
あの時、不用意に小さな命を叩き潰した罰が、巡り巡って今、精算されている。
そう思えてならなかった。
アミナと僕が辿り着いた結論――
カレンは、前世の妻アーイシャではない。
学園を去る際、アミナは繰り返し用心するよう僕に告げ、
ひとつの魔道具を懐へと忍ばせてくれた。
掌に収まるほどの、小さな赤い石だ。
緊急を要する事態に陥った場合、
そこへ魔力を注ぎ込めば、彼女は即座に転移してくるという。
願わくば――
今すぐにでもその石を握りしめ、
いっそ、このまま三人で暮らさないかと提案してしまいたい。
そんな甘い考えが、胸の奥で一瞬だけ、灯っては消えた。
しばらくの間、僕たちは言葉を失い、
ただ呆然と、降り注ぐ光の鱗粉を見上げていた。
それが奇跡の名残なのか、
あるいは呪いの毒粉なのか――
判断を下すには、あまりにも静かすぎた。
*
「ただいまです!」
「……」
家に戻ると、散らかった部屋の光景が、唐突に視界へ飛び込んでくる。
補修跡の残る床。
無造作に置かれた工具。
魔術に焼かれ、未だ焦げ色を帯びた壁。
どれも見慣れたはずの、自室の断片だ。
変わらない日常を映すはずの景色。
それなのに――
魔術演舞を終えた今の僕には、
ひどく現実離れした、舞台装置の残骸のように思えた。
これから、どう生きていくべきか。
カレンという存在と、どう折り合いをつけるのか。
自室の持つはずの安心感が、
むしろ目を逸らしてきた現実を、容赦なく照らし出す。
考えることを許さないのではない。
考えずにいられない場所へ、帰ってきてしまったのだ。
――しかし、気負う必要はない。
『救済聖書』を手に入れるまでの間、表面上だけ、仲良くしていればいい。
身寄りのない遠い親戚が、少しの間、厄介になる。
そういう話だと思い込めばいい。
……そう、思っていた。
「イズヒトさーまっ」
頬ずりでもしかねない声音と、異常な距離の詰め方。
反射的に、言葉が口をついた。
「なんだ、気色悪い」
「酷い!
……あ、でも。そういうプレイがお好みなのかもしれないですし……いっか」
――?
一体、何をどう自己完結させたのだ。
罵倒を浴びせて快楽を覚える趣味はない。
そう言い返そうとした、その瞬間。
床に、衣擦れの音が落ちた。
軽い音だった。
だが、それは決定的だった。
カレンが、服を脱いだ。
そして、何の躊躇もなく、悍ましい言葉を紡ぐ。
「さ、イズヒト様も。
いちゃいちゃ、しましょう?」
「お前は学園に脳味噌を忘れてきたのか。
今すぐ取りに戻ってこい」
「……?
イズヒト様こそ、お忘れではありませんか?」
小首を傾げる仕草。
そこに迷いはない。
自分が狂っている可能性など、微塵も疑っていない瞳だった。
ただ“正しさ”だけを、こちらに向けてくる。
「魔術演舞が始まる前。
早くソウマをぶっ殺して、イチャイチャしましょう、と。
私は、確かに申し上げましたよね?」
――こいつは、一体、何を言っている。
確かに。
そんな戯言が交わされた記憶は、うっすらと存在する。
だが、それがどうしたというのだ。
あの時。
僕は――何と、返事をした?
その記憶を指先でなぞるように、
カレンは、ゆっくりと言葉を重ねてくる。
「イズヒト様。
あの時、イズヒト様は『うん』と。
確かに、返事をしてくださいました」
独白めいた声音。
恍惚とした表情。
「――嬉しかったなあ」
得体の知れない何かが、
胸の奥の琴線を、爪で弾いた。
恐怖だ。
理屈ではない。
嫌悪とも違う。
手のひらに滲んだ汗が、
指先へと、ゆっくり流れていくのを感じていた。
「ふ、ふざけるな……!」
喉が裏返る。
怒声というより、追い詰められた獣の威嚇だった。
「あんなのは、ただの冗談だ!
間に受ける馬鹿が、どこにいる!」
突き飛ばすように叫んだ、その――
瞬間だった。
「【――】」
言葉にならない音。
それでも確かに、“詠唱”だった。
次の刹那。
風切音が、耳を裂いた。
鋭く。
空気そのものを刃に変えたような――
肉を断つ音。
音に意識を奪われた、その直後。
世界が、傾いた。
くらり、と視界が揺れる。
カレンの姿が消え、
煤に汚れた灰色の天井だけが、ゆっくりと視界を満たす。
――ああ。
既視感。
カレンを召喚した時にも、確か、こんなことがあった。
足元が崩れ、
魔術の失敗作に絡め取られた、あの感覚。
また、過去の残滓に足を取られたのだろう。
そう、思った。
……だが。
それは、あり得ない。
あのガラクタたちは、数日前にすべて処分した。
残骸も、記録も、完全に。
――違和感。
身体に力が入らない。
立ち上がろうとしても、
命令が、下半身へ届かない。
視線を動かす。
その時。
目の前に、
“自分の脚”が落ちていることに気付いた。
一呼吸。
理解が追いつくまでに、
それだけの時間が必要だった。




