■2■03:リツの決断
炭鉱街の最奥、すでに放棄され、有害なガスが溜まる廃坑の地下深く。
錆びた鉄格子の向こうで、一人の男が縄で縛られ、血と泥に塗れて転がっていた。男はこの街を牛耳る人身売買組織の頭目であり、数え切れないほどの人間を破滅させてきた、救いようのない極悪人だった。
「ひっ、あ、悪魔……頼む、助けてくれ……! 金ならいくらでも――」
男がガタガタと歯を鳴らして見上げる先。
暗闇の中で、リツがしゃがみ込んでいた。
リツの身体からは、いつも以上に眩い蛍光黄緑と青緑の光が、鱗の隙間から不規則に明滅していた。その瞳のない黒い目は、怯える男を映しながらも、どこか遠くを見つめているようだった。
「……気づいちゃったんだ」
リツはぽつりと、掠れた声で呟いた。それは人間のそれではなく、蛇が微かに喉を鳴らすような、低く冷たい残響を伴っていた。
「僕がどれだけ君を愛しても、どれだけこの身体で君を守っても、君の心はどんどん凍りついていく。それは、君が『悪魔』だから。不老不死の呪いのせいで、君の心は孤独に壊れかけているんだ」
リツは、私が頑なに心を閉ざす本当の理由を、その無垢な知性で理解してしまったのだ。
悪魔という名の不自然な呪い。人間の精神を摩耗させる永遠の檻。私がどれだけ彼を拒絶しようと、それは私自身の魂が、悪魔の狂気に呑まれまいと必死に抵抗している悲鳴だったのだと。
「僕は、君に笑ってほしい。元の人間に戻って、短い時間を、人間らしく生きてほしい。……そのためなら、僕は悪魔を辞めたって構わない」
リツの細い指先が、男の胸元へと伸びる。
男は絶望に顔を歪め、絶叫を上げようとしたが、リツの背後から顕現した巨大な青緑色の鱗の尾が、男の身体を冷酷にへし折るように固定した。
「ひいぃっ、やめ、やめろ……っ!!」
「君みたいな悪い人間の心臓なら、いくら弄んだって、僕の心は痛まないから」
リツの口が、耳元まで大きく裂けた。
歯ブラシのように細かく鋭い牙が敷き詰められたトカゲの顎が露わになり、彼の掌から、ドロドロとした蛍光黄緑の『呪い』――悪魔の力が、凄まじい濁流となって男の胸へと注ぎ込まれていく。
強制的な呪いの譲渡。
悪魔の全能力を人間に押し付け、対象を無理やり悪魔化させる行為。通常、これを行えば悪魔は消滅するか、死に至る。しかし、リツには確信があった。自分は元が人間ではない。元が野生の蛇であるからこそ、呪いをすべて手放せば――。
「が、あ、あああああああッ!!!」
男の絶叫が廃坑に木霊する。男の皮膚が急速に硬化し、牙が融合し、その姿が悪魔の真の姿へと変貌していく。
同時に、リツの身体から、圧倒的な質量を持っていた悪魔の気配が、目に見えて霧散していった。
彼の手首から首筋を覆っていた青緑色の明滅する鱗が、一枚、また一枚と剥がれ落ち、地面に落ちては煙となって消えていく。
「……あ」
リツの口から、小さく、か細い声が漏れた。
彼の耳まで裂けていた顎が、ゆっくりと、本来の人間の少年のものへと縮んでいく。瞳のない黒い目にも、ほんのわずかだけ、生きた生物としての光が戻りつつあった。
システムを欺く、命がけのバグ。
悪魔の力を極悪人に押し付けることで、リツは私の『人間の心臓』を自らの肉体から切り離し、私を人間に戻すための呪術を完成させようとしていた。
「これで、いいんだ……。待っててね、僕の、大好きな人……」
呪いを完全に譲渡し終えたリツは、激しい疲労感に襲われたように、どさりと冷たい地面に倒れ込んだ。彼の身体はまだ人間の少年の形を保っていたが、その手足は、時折ピクリと不自然に捩れ、生物としての『退行』が始まっていることを示していた。




