■2■01:永い孤独と、緑の蛇
灰色の戦友を失い、悪魔の力を継承してから、どれほどの歳月が流れただろう。
数十年、あるいはもっとか。時間の感覚はとうに麻痺していた。どれだけ月日が流れようと、私の肉体はあの冷たい雨の夜のまま、微塵も衰えることがないからだ。
私はかつての街を離れ、海を越えた別の『九聖区』の辺境――錆びた鉄塔が乱立し、煤煙が常に空を覆う炭鉱街の片隅に、ひっそりと居を構えていた。
悪魔となった私は、今度は自分が誰かの『盾』となり、その人間の心臓を預かることで、人間としての理性を繋ぎ止めるべきだったのかもしれない。だが、私はそれをしなかった。サチを失った喪失感と、他人と深く関わることへの忌避感が、私を完全な孤独へと追いやっていた。
そんなある日のことだ。
「ねえ、君。どうしてそんなに死んだような目をしているの?」
煤けたアパートの、鍵の壊れたドアをすり抜けるようにして、その少年――あるいは少女は現れた。
息を呑むほど鮮やかな、蛍光黄緑のメッシュが入った柔らかな髪。華奢な体躯に、ぶかぶかの古着のシャツを纏っている。一見すれば、この治安の悪い炭鉱街に迷い込んだ無垢な子供のようだった。
だが、その目の奥には、生物としての光が一切存在しなかった。白眼も硝子体も、底の抜けた闇のように黒く塗りつぶされている。
――悪魔。それも、驚くほど濃い呪いの気配を放っていた。
「勝手に入らないで。出て行って」
私は冷淡に言い放ち、背中の影から『灰色の狼の四肢』を僅かに覗かせて威嚇した。悪魔同士なら、この肉体を損壊させ、殺し合うことが可能だ。
しかし、その子供は怯えるどころか、嬉しそうに目を細めた。
「あはは、やっぱり同類だ! 君も『呪い』を宿しているんだね。僕はリツ。ねえ、君の名前は?」
リツと名乗った悪魔は、私の威嚇を無視してするりと距離を詰めてくる。その動きは人間の歩行とは異なり、まるで骨格がないかのように滑らかで、地を這う蛇のようだった。
「リツ、私に関わらないで。私は誰とも契約する気はないし、心を分かち合う気もない」
「契約? そんな物質的な縛り、僕には関係ないよ。だって僕は、君のことが気に入っちゃったんだから!」
リツは屈託のない笑顔を浮かべる。だが、その口元が小さく裂けた瞬間、私は言葉を失った。
覗いたのは、歯ブラシのように細かく鋭い牙がびっしりと敷き詰められ、土台ごと融合したトカゲの顎。サチが狂気に呑まれかけた時に晒していた、あの悍ましい『真の姿』の象徴。
なのに、リツの精神は驚くほどに安定していた。
通常、悪魔化の呪いを受けた人間は、その不老不死の不自然さに精神が耐えきれず、狂気へと堕ちていく。異形化が進んでいるリツの精神が、これほど無垢で、穏やかなままでいられるはずがなかった。
「……あなた、何者なの? なぜそんな姿をしていて、狂わずにいられるの?」
私の問いに、リツは自身の蛍光黄緑の髪を弄びながら、小首を傾げた。
「不思議? 当然だよ、僕は元々『人間』なんかじゃないもの。ずっと昔、人間の悪魔に呪いを譲渡されるまでは、ただの野生の蛇だったんだ」
野生の、蛇。
その言葉に、世界観が根底から揺らぐような衝撃を覚えた。
悪魔とは、人間の不老不死への渇望や絶望が生み出す精神の病、あるいは呪いだ。しかし、リツは元が動物であるがゆえに、「不老不死が不自然である」という宗教的・精神的な絶望を、そもそも持ち合わせていない。永遠の時間を生きることに、何の疑問も苦痛も抱かない。
だからこそ、精神の崩壊を起こさない。システムを根本から欺く、極めて特殊で歪な、天性の悪魔。
「ねえ、君。僕と一緒に行こうよ。この街は治安が悪いし、君はいつも寂しそうだ」
リツは私の手元へ這い寄り、細い指先で私の冷え切った手に触れた。青緑色に妖しく明滅する微細な鱗が、彼の首筋から手首へと浮かび上がっている。
「僕は君が好きだよ。君も僕が好きでしょ? だから、僕が君を守ってあげる」
その言葉は、純度100%の親愛と好意に満ちていた。
けれど、サチを失い、悪魔の孤独に心をすり減らしていた私の心には、その無垢すぎる光が、あまりにも眩しく、そして残酷に突き刺さる。
「……いいえ」
私はリツの手を冷たく振り払った。
「私はあなたを愛さない。誰も、二度と信じない。だから、私の前から消えて」
リツは拒絶され、一瞬だけ悲しそうに、瞳のない黒い目を伏せた。けれど、すぐにまた無邪気な微笑みを浮かべ、私の影の奥へと身を隠すように消えていく。
これが、私と蛍光黄緑の蛇――リツとの、狂った距離感の始まりだった。
心を閉ざし続ける私と、ただ純粋に愛を囁き続ける、狂わない悪魔。炭鉱街の煤煙の下で、私たちの奇妙な停滞が、静かに幕を開けようとしていた。




