■1■05:悪魔になった私
冷たい雨が、崩落した天井の隙間から容赦なく降り注ぐ。
水滴が叩きつける床の上には、さっきまで私の戦友だった青年の服と、彼が遺した一握りの灰だけが静かに横たわっていた。
「サチ……」
ぽつりと、自分の声が静寂に吸い込まれていく。
胸の奥に手を当てても、あの懐かしい、生温かい拍動はもう聞こえない。私の『人間の心臓』は、白い神父の手によって粉々の光の塵となって消え失せた。今、私の肋骨の奥に収まっているのは、心臓ではなく、サチから強制的に譲渡されたドロドロとした灰色の『呪い』そのものだった。
――悪魔化。
それは、壊れない肉体という名の檻に精神を閉じ込める、不老不死の呪詛。
ドクン、と体内が沸騰するような錯覚とともに、私の背中の皮膚を突き破って、実体化した影のような『灰色の狼の四肢』が這い出てくる。サチが私を守るために振るっていた、あの圧倒的な破壊の力。それが今や、私の意思と連動して床をそっとなぞっていた。
試しに、近くに落ちていたコンクリートの鋭利な破片を拾い、自分の腕を深く切り裂いてみる。
赤黒い血が溢れ出たが、それも束の間。傷口はギチギチと音を立て、肉と皮膚が瞬く間に結合し、一瞬で何事もなかったかのように滑らかな白い肌へと戻ってしまった。衣服についた血痕だけが、今しがた傷を負ったことを証明している。
本当に、私は人間を辞めてしまったのだ。病に侵されることも、暴漢に頭をぶっ飛ばされて死ぬこともない。しかしそれは、いつか人間の記憶も思考も失い、あの歯ブラシのように融合した牙を持つトカゲの化け物へ退行していくタイムリミットの始まりでもあった。
私は、サチの遺品となった灰の前に膝をついた。
彼が消滅する直前、完全に黒く塗りつぶされた目で、確かに私を見て遺した最後の言葉が、激しい雨の音の裏で何度もリフレインしていた。
『……思い、出した。ワタシはかつて、キミだった……』
その言葉の意味を、今の私はまだ理解できない。
サチはかつて、私だった? 私たちはただのビジネスライクな契約者と悪魔で、治安の悪いこのスラムでたまたま利害が一致しただけの赤の他人のはずだ。なのに、なぜ彼はそんな、世界の理を揺るがすような奇妙な言葉を、あの狂気の淵で思い出したのだろう。
サチが私の人間性のアンカーだったように、サチにとってのアンカーは私だった。もし彼の言葉が狂言でなく真実だとしたら、私は――。
考えを巡らせようとしたが、今の私の頭ではこれ以上の答えは出なかった。ただ、彼の遺した灰に、ほんのわずかな『温もり』の残り香があるような気がして、私はそれをそっと自分のポケットに流し込んだ。
遠くから、組織の監視員たちの追っ手の足音が微かに響いてくる。
白い神父は、私が悪魔化して生き延びたことをまだ知らないだろう。ここに留まり続けるわけにはいかない。
私はサチの灰をポケットに収め、ボロボロになったアジトから、冷たい雨が煙る夜のスラムへと足を踏み出した。
見上げる夜空はどこまでも黒く、私の歩むべき未来と同じくらいに底が見えない。
愛も好意も交わさなかった。冷徹な信頼だけで繋がっていたはずの戦友を失い、私は一人になった。これからどれほどの永い時間を、この呪われた肉体で彷徨うことになるのだろう。
けれど、絶望はしていなかった。サチの最後の言葉が、私の魂に小さな、けれど消えない楔となって打ち込まれているからだ。
「サチ。私、行くね」
灰色の狼の四肢を影へと溶かし込み、私は暗闇の奥へと歩き出す。
それは、これから始まる永劫の孤独と、果てしない円環の真実へと向かう、歪で、力強い一歩だった。




