■1■04:心臓の破壊と「呪いの譲渡」
激闘の果て、地下アジトは完全に崩壊していた。
辛うじて形を保っているコンクリートの隙間から、冷たい雨の混じるスラムの夜空が覗いている。
サチの身体は満身創痍だった。灰色のコートは裂け、そこから覗く肉体は白い神父の放った光の杭に焼かれ、ドロドロとした灰色の血を流し続けている。だが、彼の背後の狼の四肢は、まだ牙を剥いて赤い悪魔を牽制していた。
「健気だね。だが、その信頼という名の欺瞞もここまでだ」
白い法衣の神父が、ふっと冷酷に微笑む。その瞬間、彼の姿がブレた。
凄まじい速度。サチが反射的に私を庇おうとしたが、神父の狙いはサチの肉体そのものではなかった。
――バキィンッ!!!
世界が静止したかのような、硬質な、何かが粉々に砕け散る音が響き渡った。
「が、はっ…………?」
サチの胸の中央。神父の白い光の手が、彼の肋骨の檻を突き破り、その奥深くを正確に貫いていた。神父の手が引き抜かれたとき、その掌の中で『ガラス細工のように結晶化した、私の心臓』が、粉々の光の塵となって弾け飛んだ。
一瞬の遅延の後。
私の胸の奥に、かつて経験したことのない、魂を直接灼かれるような激痛が走った。
「――っ、あ、……ぁ」
声にならない悲鳴が喉に詰まる。
心臓がない状態の契約者は、頭を吹き飛ばされても死なない。だが、それは『心臓がどこかで無事に脈打っていること』が前提の不死だ。保管されていた心臓そのものを破壊されれば、その因果は一瞬で契約者の肉体へとフィードバックされる。
私の全身の皮膚がひび割れ、そこから赤黒い血が噴き出した。膝が折れ、視界が急速に明度を失っていく。これが、死。これまで何人の暴漢を返り討ちにしようと、私を待ち受けていた絶対的な結末。
「これで終わりだ。悪魔に守られた歪な命よ、あるべき無へと帰りなさい」
神父は興味を失ったように私から目を離し、赤い悪魔を従えて、崩壊した地下室から去ろうとする。彼にとって、心臓を壊された契約者は、もう息を引き取るだけの「ただの死体」でしかなかった。
床に倒れ伏した私の視界の先で、サチが這いつくばるようにして近づいてくる。
「『----』……! 『----』……っ!!」
彼の顔は、すでに人間の限界を超えていた。
アンカーだった私の心臓を失ったことで、彼を繋ぎ止めていた理性の檻が一気に崩壊していく。頬の裂け目は耳まで達し、歯ブラシのように融合した鋭い牙ががちがちと音を立てる。目は完全に黒く塗りつぶされ、完全なトカゲの化け物のそれへと退行していく。
狂気に呑まれ、自我を失うカウントダウン。
しかし、サチは、その完全に黒に染まった目で、真っ直ぐに私を見た。
「……嫌だ。キミを、死なせ、ない……!」
サチの喉から、獣の咆哮のような、けれど紛れもない人間の悲痛さを孕んだ声が絞り出される。
彼はトカゲの顎を大きく開き、残された最後の理性を振り絞って、私の胸元へと手を伸ばした。彼の掌から、ドロドロとした灰色の『呪い』――悪魔の力が、濁流のように私の傷口へと流れ込んでくる。
悪魔の力をすべて譲渡することで、契約者を蘇生し、悪魔へ変える。
それは、自分の存在そのものを完全に消滅させる、悪魔にとっての『自殺行為』だった。
「サチ……だめ……狂う、あなたが……消える……」
「いい、んだ……。キミがワタシを、信じてくれたから……ワタシは最後まで、人間でいられた……」
灰色の呪いが私の身体を巡る。私の壊れた肉体が急速に再構成され、代わりにサチの肉体が、足元からパラパラと、乾いた灰へと変わっていく。
恋愛感情なんてなかった。お互いに利用し合うだけの、冷徹な関係だったはずだ。
なのに、サチの顔は、消えゆく間際、ひどく穏やかな人間の青年のものに戻っていた。
『……思い、出した。私はかつて、君だった……』
それが、彼の最期の言葉だった。
サラサラと音を立てて、灰色の青年だったものは、冷たい地下の床に積もる一握りの灰へと姿を変えた。衣服だけが、主を失って虚しくそこに残されている。
静寂が戻った廃ビルの地下で、私はゆっくりと上体を起こした。
胸の痛みは完全に消えていた。代わりに、背中の奥から、サチのものだった灰色の狼の四肢が、私の意思とは無関係にぐにゃりと這い出てくる。
私は生き延びた。サチの命と引き換えに。
人間を辞め、不老不死の呪いを引き継いだ『悪魔』として。
サチだった灰の山を見つめながら、私は自分の新しく変質を始めた肉体を、ただ静かに抱きしめることしかできなかった。




