■4■02:すれ違う私とワタシ
煤煙と泥に塗れたスラムの空気は、どこまでも重く、鉄錆の臭いに満ちていた。
ワタシがこの薄汚れた路地裏で行き倒れていた少女を見つけたとき、ワタシの胸に去来した感情は、驚くほどに乾いていた。
「……ねえ。生きてる?」
声をかける。フードの奥から覗くワタシの髪は、とうに色彩を失ったくすんだ灰色だ。
ピクリと身体を震わせ、泥に塗れた床から顔を上げた少女――その顔を見た瞬間、ワタシの記憶の底、固く凍りついていた何かが微かに軋んだような気がした。
どこかで見た顔だ。
だが、今のワタシの摩耗しきった脳では、それが誰なのかを正確に思い出すことはできない。リツの蛍光黄緑も、ニエの退廃的な漆黒も、すべては永い時間の砂に埋もれて消え去った。現在のワタシは、自分の本名すら忘却している。残されているのは、生存のための本能と、冷徹な理性の檻だけ。
少女は怯え、同時にワタシを強く拒絶するような目で睨みつけてきた。病に侵されているのか、その呼吸は浅く、今にも燃え尽きそうなほどに脆い。
「だれ……? 私に構わないで」
「キミ、死にかけてる」
ワタシは淡々と言い放ち、少女の前にしゃがみ込んだ。
じっと見つめる彼女の瞳。その奥にあるのは、世界への絶望と、それでも生が潰えることを拒む強固な意志だ。
「生き延びたい?なら、ワタシに『キミの心臓』を差し出せ」
ワタシは彼女の細い胸元へ、鋭い爪へと変わりつつある指先を向けた。
悪魔の契約――それは、人間が悪魔に自らの心臓を渡し、悪魔がそれを体内に取り込んで人質とすることで成立する、歪な因果の結合だ。
「キミの胸を突き破り、その奥にある心臓をワタシが奪う。キミの心臓がワタシの肉体の中で脈打つ限り、キミは不老不死となり、どんな病も刃もキミを殺せなくなる」
少女は息を呑み、ワタシの狂気じみた提案に戦慄いた。だが、背に腹は代えられない。彼女は苦しい呼吸の中で、覚悟を決めたように小さく頷いた。
「……いいよ。生きて、見返してやるんだから……!」
その言葉を合図に、ワタシは彼女の胸の檻へと躊躇なく手を突き立てた。
――グブッ、と生温かい血の感触。
ワタシは彼女の肋骨の奥から、まだ生々しく拍動を刻む『人間の心臓』を、優しく、けれど冷酷に引きずり出した。少女の口から短い悲鳴が漏れる。ワタシは奪い取ったその心臓を、自ら裂いた胸の中央へと埋め込み、体内のドロドロとした灰色の呪いと同化させた。
因果の鎖がガチリと噛み合う音が聞こえた。
心臓を奪われたはずの少女の肉体が、悪魔の契約による不老不死の力で急速に再構成され、傷口がたちまち塞がっていく。代わりに、ワタシの背中の影から、ボロボロに傷ついた灰色の狼の四肢が、咆哮を上げるようにぐにゃりと顕現した。
体内に他人の心臓を宿す異物感に耐えながら、ワタシは自分の新しい契約者となった少女を見つめる。
恋愛感情も、馴れ合いの好意もそこにはない。ただ、お互いが生き延びるために利用し合うだけの、冷徹な信頼関係。
「……あなたの名前は?」
少女が、痛みに耐えながら掠れた声で問う。
ワタシは一瞬、思考を巡らせた。本当の名前は思い出せない。だが、凍りついた記憶の深層から、なぜかその二文字だけが、泡のようにぷつりと浮かび上がってきた。
「……サチだ。ワタシのことは、サチと呼べ」
サチ。それが新しい私の識別名となった。
時間が逆転したのか、あるいは因果が気が遠くなるような円を描いて巡り、最初の地点へと戻ってきたのか。目の前にいるのは、かつて人間だった頃の「私」自身であり、ワタシは今、彼女の心臓をその体内に預かり、彼女を護るための化け物としてここに立っている。
「よろしく、サチ。私は――」
少女が自身の名前を名乗る。その響きを耳にしながら、私はフードを深く被り直した。
こうして、第1章の幕が再び上がる。すれ違う私とワタシが、互いの生存を賭けて過酷な防衛戦へと身を投じる、あの終わらないウロボロスの円環が、また静かに回り始めようとしていた。
――けれど、すべてが同じではない。
サチとなったワタシの胸の奥、かつて譲渡された漆黒の呪いの残滓が、ほんの心許ないほどに、前回の円環とは違う「微かなズレ」を、この閉じた世界に刻みつけていた。




