■4■01:摩耗する時間
漆黒の執着が灰となって消え去ってから、世界はまた静かに、気の遠くなるような時間を刻み始めた。
どれほどの都市を巡り、どれほどの夜を越えただろう。
人間に戻ったあの短い奇跡の時間は、今や遠い砂漠に落とした一滴の水のように、私の肉体から完全に失われていた。衣服の隙間から時折覗く肌には、くすんだ灰色の、けれど微かに黒い煤を孕んだような硬質な鱗が、じわじわと侵食の度合いを深めている。
不老不死という名の、終わりのない摩耗。
それは肉体を維持する代わりに、人間の『記憶』を少しずつ、残酷に削り取っていくシステムだった。
「……リ、ツ。……ニ、エ……」
夜の帳が下りた荒野の廃屋で、私は壊れたラジオのように、その名前を呟いてみる。
けれど、その名前を呼んだときに胸を締め付けていたはずの、あの引き裂かれるような鮮烈な痛みは、もうどこにもなかった。
蛍光黄緑の美しい蛇が、私の涙を舐めて喉を鳴らしたこと。
退廃的な薔薇の匂いを纏った漆黒の悪魔が、狂おしい目でお前の心をくれと叫んだこと。
それらの光景は、今や古い劇場の、色褪せてノイズだらけになった無声映画を見ているかのように、ひどく客観的で、どこか他人事のようにしか思い出せない。ディテールが、色彩が、毎夜少しずつ闇に溶けて消えていく。
代わりに、鏡に映る私の姿は、確実にある『完成形』へと近づいていた。
かつて艶やかだった髪は、一本、また一本と色彩を失い、今や完全に「くすんだ灰色の髪」へと変貌している。
パキ、ピキ、と夜の静寂を破って皮膚が引き攣る音がする。
洗面台の割れた鏡を覗き込めば、私の頬の肉は内側から裂け、そこから覗く歯が、細かく鋭い『牙』へと形を変えつつあった。それは一本ずつ独立した人間の歯ではない。土台ごと完全に融合した、あの悍ましいトカゲの顎そのもの。
そして、私の瞳からも、ゆっくりと光が退行していく。
白眼も硝子体もすべてが漆黒に染まり、底の抜けた闇のような「瞳のない黒い目」が、鏡の向こうから私をじっと見つめ返していた。
脳髄の奥で、かつてニエが遺した絶望の叫びが木霊する。
『お前はいつか、あの感情を失くした「灰色」へと成り果てる!』
ああ、そうだ。私は今、完璧にそのルートを辿っている。
ニエへの愛も、リツへの憐れみも、すべてを忘却の彼方へと置き去りにして、私は「私を護るための化け物」へと退行していく。すべてを忘れた私は、いつか過去(あるいは未来)のスラムの地下で、一人の人間の少女に出会うのだろう。そして、感情のない冷徹な契約を結び、彼女の絶対的な生存の盾となって、最期は白い神父に心臓を撃ち抜かれて灰になるのだ。
「これで、いい……」
牙が融合した顎を軋ませ、私は低く呻いた。複数の生き物の声が混ざり合ったような、地を這う声。
寂しさはない。悲しみもない。今の私の精神は、すでにそれらの人間らしい機能をほとんどすり潰されていた。ただ一つ、魂の最深部、消えかけの炭火のように残った『執着』だけが、私を突き動かしている。
(私は、巡る。すべてを忘れても、あの円環の先で、また彼らに出会うために――)
私は、ボロボロになった灰色のコートを深く羽織り、フードで異形化の進む顔を隠した。背中の影から、ボロボロに傷ついた灰色の狼の四肢が、不気味に、けれど力強く床に這い出てくる。
世界のシステムが刻む、ウロボロスの時間。
私は完全に人間を辞めた「灰色の悪魔」として、次の周回へ、最初の始まりへと向かって、孤独な歩みを再び進め始めるのだった。




