■3■05:心をあげない
まばゆい純白の光の杭が、ニエの胸を正確に貫いた。
――カラン、と、世界の動きが止まったかのような錯覚がした。
ニエの肋骨の奥、私の『人間の心臓』を収めていたはずの場所が、光の爆発によって内側から粉々に粉砕される。
彼の身体から吹き荒れていた漆黒の霧が、一瞬にしてその勢いを失い、サラサラとした黒い灰となって宙に溶け始めた。耳まで裂けたトカゲの顎、びっしりと融合していた牙が、崩れるように剥がれ落ちていく。
「……ぁ……、あ……」
ニエの巨躯が、糸の切れた人形のように床へ崩れ落ちる。
組織の実行部隊や白い神父は、目的を達したと言わんばかりに、光の粒子となって夜空へと撤退していく。崩落した廃ビルの最上階に残されたのは、致命傷を負って消滅を待つ漆黒の悪魔と、私だけだった。
私は彼のもとへ駆け寄り、その青白い身体を抱き起こした。
ニエの瞳のない黒い目から、徐々に光が失われていく。けれど、彼は残された最後の力で、私の頬をその細く白い指先でそっとなぞった。
「Σ……、早く……、私に、お前の『心』を……。今ここで、私を愛すると、言ってくれ……。そうすれば、お前をあの、灰色の地獄へ……還さずに、済む……」
ニエの声は、ひび割れ、今にも消え入りそうだった。
彼を包む漆黒の長い髪が、足元からパラパラと灰に変わっていく。
今、この瞬間に、私が彼に心を委ねれば。私たちが100%の愛で結ばれ、精神を完全に融解させれば、ニエの願い通り、私たちの魂は二人揃ってこの世界の理から完全に消滅し、終わらない円環から解放される。それは、永遠の安息という名の救いだ。
ニエは、ただそれだけを求めて、この過酷な戦いを生き抜いてきた。
私は、彼を見つめた。
頬を伝う涙が、彼の黒いリップに触れて零れ落ちる。私の胸の奥、心臓のあった場所から、ドロドロとした『漆黒の呪い』が逆流し、私の肉体を再び悪魔へと作り変えていく感覚がした。背中の皮膚を突き破り、かつての灰色の四肢が、今度は漆黒の闇を纏って這い出てくる。
私は、ニエの冷え切った唇のすぐ近くで、静かに、けれど明確に言葉を紡いだ。
「――やっぱり、心はあげない」
ニエの黒い瞳が、絶望に大きく見開かれた。
がちりと、彼の融合した牙の残骸が切なげに鳴る。
「なぜ、だ……! なぜ、お前はそこまでして、あの孤独な、灰色の一人に還ろうとする……! 私と共に、無に還るのが、そんなに……っ」
「違うよ、ニエ」
私は微笑んだ。悪魔化していく私の肉体が、涙を渇かせ、心を凍りつかせていく。けれど、この選択だけは、私の最期の、本物の意志だった。
「ここであなたと消滅したら、私たちの物語は完全に終わってしまう。それは、あなたという存在が、この世界から永遠に消えてしまうってことでしょう?」
私が心を渡さないのは、トラウマのせいだけじゃない。
この地獄のような永劫回帰を受け入れ、私がいつかあの感情を失くした『サチ』になり、また時間を巡れば――その先にある未来で、私は必ず、もう一度あなたと出会うことができる。
私がサチになって始まりの私を護り、リツが私を人間に戻し、そしてまた、あなたという漆黒の執着が私を見つけ出す。
終わらない円環は、地獄だ。けれどそれは、私があなたたちと『何度も再会できる』という、唯一の約束された未来でもある。
「私は、何度傷ついたって構わない。たとえ記憶を失くして、冷徹な化け物に退行したとしても……私は、あなたと出会う未来を選び続ける。だから、心はあげないわ」
「……あ、あど、けない……、馬鹿な、私の……Σ……」
ニエの口元が、皮肉げに、そしてこれ以上ないほど愛おしげに歪んだ。
彼の身体が、一際大きな黒い霧となって弾ける。
「待って、いるぞ……。お前が何度巡ろうと……私は必ず、お前の心を、奪いに……」
それが、彼の最後の言葉だった。
私の腕の中から質量が消え、退腐的な薔薇の匂いだけを残して、漆黒の悪魔は完全に消滅した。
あとに残されたのは、崩落したビルの隙間から見える、冷たい星空。
そして、ニエの力を完全に継承し、漆黒の異形を背中に生やした、新しい『悪魔の私』だけだった。
ドクン、と胸の奥で、呪いのビートが冷酷に鳴り響く。
人間の感情が、じわじわと凍土のように冷えていくのが分かる。いつか私は、ニエのことも、リツのことも、自分がかつて人間だったことすらも忘れて、ただ『冷徹な信頼』だけを抱く灰色の悪魔になるのだろう。
「行ってくるね、ニエ。……私たちの、次の円環へ」
私は漆黒の霧を纏い、夜の闇へと足を踏み出した。
自ら選んだ終わらない地獄の、その最果てにある、愛しい再会を信じて。




