■4■03:ポケットの中の希望
少女――かつての、まだ何も知らない『私』を連れて、ワタシはスラムの闇に紛れた崩落寸前のアジトへと戻ってきた。
煤煙が滴る錆びたトタンの屋根。腐った配管から絶えず滴る黒い水の音。世界は、ワタシがかつて辿った記憶と一寸の狂いもなく、完璧に同じ景色をトレースしているように見えた。ワタシの背中の影から覗く『灰色の狼の四肢』も、完全に融合したトカゲの顎も、すべてはあの忌まわしい『サチ』そのものだ。
けれど。
完璧に見える円環の底で、決定的な『バグ』が一つだけ静かに呼吸をしていた。
「……シュルル」
ボロボロになった灰色のコート。その深く大きなポケットの中から、微かな摩擦音と、冷たくて愛おしい皮膚の感触が私の指先に伝わってくる。
そっとポケットを覗き込めば、そこには一匹の小さな蛇が、私の指に丸まってとぐろを巻いていた。
スラムの汚濁には決して存在し得ない、息を呑むほどに美しい蛍光黄緑の斑紋と、深い青緑色の鱗。かつて私のために人間性を捨て、野生の森へと帰したはずの――リツの成れの果て。
どうして彼がここにいるのか、今のワタシの摩耗した頭では理屈を導き出せない。時間を遡る因果の歪みに、あの執念深い蛇が無理やり潜り込んできたのか。あるいは、完全な獣に戻った彼が、時空を超えて私の魂の匂いを追いかけてきたのか。
彼にはもう人間の思考も言葉もない。けれど、その琥珀色の瞳は、じっと私の指を見つめ、確かにそこに寄り添い続けていた。
さらに、私の魂の最深部にも、奇妙な『重み』が残っていた。
すべてを忘却し、冷徹な信頼だけを拠り所にするはずの灰色の心。そこに、退腐的な薔薇の匂いと、耳まで裂けた口で「お前の心をくれ」と叫んだ漆黒の悪魔――ニエの、狂おしいほどの執着の残り香が、消えない刺青のように深く刻まれている。
ワタシは、『私』をサチにしないために命を散らした彼らの愛を、この肉体と魂で、確かに『覚えて』いた。
「サチ? どうしたの、急に黙り込んで」
アジトの隅、湿った毛布にくるまった少女が、不審そうに私を見上げてくる。
ワタシの胸に心臓を人質として預け、これから過酷な運命に巻き込まれていく、哀れな私の過去。
本来の第1章の記憶の始まりにおいて、悪魔サチは、少女に対して終始冷酷で、ビジネスライクな態度を崩さなかったはずだった。一切の感情を交わさず、乾いた信頼だけで繋がっているのが、灰色の悪魔の絶対的なルールだった。
しかし、ワタシは。
フードの奥、瞳のない黒い目を細め、融合した牙の覗く口元を――ほんの僅かだけ、優しく、愛おしそうに歪めて微笑んだ。
「……なんでもない。ただ、キミは本当に、昔のワタシにそっくりだと思っただけだ」
「は? 意味分かんない。私はあなたみたいな化け物じゃないわ」
少女は不機嫌そうに顔を背ける。その生意気な拒絶の態度すら、愛おしくて堪らなかった。
――ああ、そうだ。これでいい。
*『私』の心を誰にも渡さない限り、この地獄の円環は終わらない。*
*心を閉ざし続ければ、『私』は何度でもこの灰色へと還り、また同じ時間を巡り続ける。*
*けれど、無意味に見えるこの円環の裏で、悪魔たちの愛は、確かに『私』の魂の形を変えている。*
*ポケットの中の緑の蛇が、微かなズレを繋ぎ。*
*魂に刻まれた漆黒の執着が、いつかこの冷徹な檻を食い破る。*
*いつかリツが奇跡を繋ぎ、ニエの執着が世界の理を完全に壊す、その『最後の周回』に辿り着くまで。*
*『私』たちは何度でも出会い、何度でもお互いを傷つけ、そして愛し合うのだろう。*
*さあ、始めよう。『私』たちの、命がけの愛の証明を。*
遠くから、重々しい足音が近づいてくる。
あれは、組織の放った最初の刺客――あの『頭を吹き飛ばされた日』の追っ手たちの足音だ。
ワタシはポケットの中の蛍光黄緑の蛇をそっと撫で、背中から漆黒の霧を孕んだ灰色の狼の四肢を激しく顕現させた。少女を守るための盾として、ワタシはゆっくりと立ち上がる。
ガシャァン! とアジトの扉が乱暴に蹴破られる。
まばゆい白光が室内に差し込む中、ウロボロスの蛇が再び己の尾を噛み締め、歪んだ世界の幕が、新しい、けれど微かに狂った音を立てて、今再び上がるのだった。




