■3■03:世界の終わりの始まり
それは、世界そのものが私たちを拒絶するような、ひどく静かで冷酷な夜だった。
深夜二時。都市の灯りが煤煙に溶ける時刻、私たちの潜伏していた高層廃ビルの窓ガラスが、一斉に内側へ向かって弾け飛んだ。
――ガガガガガガァンッ!!!
突風とともに部屋へ流れ込んできたのは、夜の闇ではない。盲目的なまでの、純白の光の奔流。
私は強烈な衝撃波に吹き飛ばされそうになったが、間一髪、漆黒の長い髪が私の身体を抱きとめ、強固な盾となって光を遮った。
「チッ……鬱陶しい羽虫どもが、一斉に群がってきたか」
ニエが低くひび割れた声で吐き捨てる。彼の纏う漆黒の霧が、周囲に侵入してきた白光を激しく激突し、室内の空気をミリミリと軋ませていた。
割れた窓の向こう、宙に浮かぶようにして佇むのは、汚れひとつない純白の法衣を纏った男――『組織』の最高監視員、あの白い神父だった。
彼の背後には、異質な被り物をした少女と赤い悪魔だけでなく、無数の『組織』の実行部隊が、冷徹な秩序の元で武器を構えて配置されている。強引に契約システムを改変したニエと、何度も世界のシステムから逸脱し続ける私を、今度こそ完全に「抹殺」するための総力戦。
「不自然な不死、そしてシステムを騙すバグの種よ」
白い神父は穏やかな、けれど一切の慈悲を排した声で言った。
「お前たちの存在は世界の摂理を乱す。もはや生かしておく理由は皆無だ。神の名において、等しく無へと還りなさい」
神父が聖書を開いた瞬間、百を超える光の杭が、雨のように室内へと降り注いだ。
「Σ、私の後ろから一歩も動くな!」
ニエが叫ぶ。彼の傲慢な美貌が、その瞬間、劇的に崩壊していった。
青白い肌が内側から押し裂かれ、頬の裂傷が耳元まで一気に達する。そこから覗くのは、歯ブラシのように細かく鋭い牙がびっしりと敷き詰められ、完全に土台ごと融合した、あの悍ましいトカゲの顎。
彼の青い瞳は色彩を失い、完全に底の抜けた闇――「瞳のない黒い目」へと塗りつぶされる。
それは、悪魔が人間の理性を捨て、本能を解放した『真の姿』。通常なら、この姿を晒した悪魔は呪いの重圧に精神を破壊され、狂気へ堕ちて暴走する。
だが、ニエは違った。
「ガあ、あああああッ!!」
獣のような咆哮を上げながらも、その瞳のない黒い目は、正確に私の安否を確認していた。彼は狂気に呑まれていない。ただひたすらに、私を守るという執念だけで、悪魔化の絶望を力でねじ伏せていた。
ニエの肉体から爆発的に膨れ上がった漆黒の霧は、巨大な混沌の巨獣の影となり、迫り来る光の杭を次々と喰らい、噛み砕いていく。
悪魔を殺せるのは悪魔だけだ。組織の実行部隊が放つ特殊な弾丸がニエの身体を貫き、漆黒の血が床に飛び散る。肉が削げ、骨が砕ける不気味な音が響くが、ニエは一歩も退かない。彼が盾となってすべての攻撃を受け止めているため、背後にいる私には、煤ひとつ飛んでこなかった。
「なぜだ……なぜ、それほどの異形化に耐えられる……!」
窓外の神父の顔に、初めて驚愕の色が浮かんだ。人間の精神では耐えられないはずの不老不死の狂気を、ニエは尋常ではない精神力で押し留めている。
ニエはボロボロになった身体で、融合した牙を軋ませて嗤った。
「笑わせるな、偽りの神父め。私がなぜ狂わないかだと? ――そんなもの、このお前たちが壊し続けてきた世界への、底無しの『執着』があるからに決まっているだろうがッ!」
漆黒の巨獣の爪が、ビルを両断せんばかりの勢いで組織の部隊へと振り下ろされる。
吹き荒れる暴力と白光の渦の中、私はニエの背中を見つめていた。心をあげないと言い放ち、彼を拒絶し続けている私を、彼は肉体を損壊させながらも、絶対に狂わずに守り抜こうとしている。
世界の終わりを予感させるような過酷な戦場の中で、その漆黒の異形が、今の私にとって唯一の、そして絶対的な世界のすべてだった。




