■3■02:心をあげない理由
強引な儀式の改変によって、私の心臓は悪魔の胸へと移り、私は再び「頭を吹き飛ばされても死なない」奇妙な人間へと引き戻されていた。だが、彼が日々求めてくるものは、やはり物質としての心臓などではなかった。
「お前のその頑なな心の壁を、どうすれば壊せるのだろうね。Σ」
深い夜。遮光カーテンの閉め切られた部屋で、ニエと名乗った漆黒の悪魔は、私の背後から音もなく這い寄るように、細く白い腕を私の首筋に絡めてきた。
彼の身体からは、常に退廃的な薔薇と硝煙の混ざり合ったような甘美な匂いが漂っている。漆黒の長い髪が私の頬をかすめ、黒いリップが塗られた冷たい唇が、私の耳元に寄せられる。
「心臓ならここにある。お前の命は私が握り、私の力はお前のためにある。なら、なぜその『心』だけは、私に渡してくれない?」
ニエの指先が、私の胸の中央をそっとなぞる。かつて本物の心臓が拍動していた、今は空っぽの場所。そこに残る精神の核――それだけを、ニエは狂おしいほどの執着で求めていた。
時に彼は、悪魔の力をもって私を跪かせ、強引に心を奪おうとする。彼の瞳のない黒い目が至近距離で私を睨みつけるとき、頭の中を直接漆黒の霧でかき乱されるような、抗いがたい支配の快楽が脳を灼く。その圧倒的な美しさと退廃的なカリスマ性に、私の心がほんのわずかでも傾きかけると、ニエは満足そうに融合した牙を見せて艶やかに微笑むのだ。
彼に惹かれていない、と言えば嘘になる。
だが、その甘美な誘惑に呑まれそうになるたび、私の魂の最深部で、凍りつくような冷たい警告の鐘が鳴り響く。
「……言ったはずよ、ニエ。私は誰にも、心だけはあげない」
私は首筋の彼の腕を、力を込めて引きはがした。
「なぜ拒む。私を愛せば、お前を縛るあらゆる孤独から解放してやるというのに」
「解放の先にあるのが、完全な『無』だからよ」
私はニエを振り返り、その底の抜けた闇のような目を見据えた。
悪魔に『心』を渡すことの意味を、私は本能的に理解していた。悪魔は不老不死という自然の摂理から外れた呪いであり、その精神の摩耗はいずれ限界を迎える。もし人間側が心を完全に渡し、悪魔と精神を100%同調させてしまえば、人間側も悪魔の抱える「不老不死の絶望」と「狂気」をすべて共有することになる。
結果として待っているのは、二人の魂の境界線が完全に融解し、世界の理から存在そのものが修復不可能なレベルで消滅させられるという、絶対的な虚無だ。
それに何より――私の胸には、まだあの痛みが鮮烈に残っている。
恋愛感情を交わさず、乾いた信頼だけで私を守り、最後に灰となったサチ。
私を人間に戻すためだけに、純粋な愛を注いだまま、言葉を失う獣へと退行していったリツ。
誰かを愛し、心を許せば、その先に待っているのは耐えがたい「喪失のトラウマ」だけだ。摩耗しきった私の精神は、もう三度目の別れに耐えられるほど強くはなかった。これ以上、目の前で誰かが壊れていくのを見るくらいなら、どんなに執着されようと、心を殺して拒絶し続ける方がずっといい。
「あなたがどれだけ強引に迫ろうと、私の心は渡さない。あなたを利用はしても、愛しはしないわ」
私の冷徹な宣言に、ニエは一瞬、耳まで裂けた口をがちりと軋ませた。漆黒の霧が彼の身体から爆発的に吹き荒れ、部屋の壁紙を瞬時に黒く焦がしていく。
「ふん……面白い。どこまでその拒絶が持つか、試してあげよう」
ニエは低く、ひび割れた声で笑うと、再び私を包み込むように闇の衣を広げた。
惹かれ合う引力と、それを拒む絶対的な拒絶。私たちは同じ部屋にいながら、決して交わることのない平行線を辿り、歪んだ愛の牢獄の中で互いを削り合っていた。




