■2■05:野生へ帰る日
四日目の朝、ベッドの上に「人間の少年」はもういなかった。
白く汚れたシーツの真ん中で、一匹の大きな蛇が、静かにとぐろを巻いていた。
それは、炭鉱街の薄汚れた景色にはおよそ不釣り合いなほど、息を呑むほどに美しい蛇だった。背中には鮮烈な蛍光黄緑の斑紋が走り、腹側は深い青緑色の鱗でびっしりと覆われている。
私が近づくと、蛇はゆっくりと頭を持ち上げた。
その琥珀色の瞳には、かつて私を「大好きな人」と呼んだ少年の知性は、もうひとかけらも残っていない。ただの野生の、声を持たぬ爬虫類の目が、無感情に私を捉えているだけだった。
「……リツ」
名前を呼んでも、尾が小さく震えるだけ。二つに裂けた舌がチロチロと空気を打つが、それは私を認識しているからではなく、単に動物として周囲の匂いを嗅ぎ取っているに過ぎない。
私はその冷たい身体を両手で優しく掬い上げ、古い布に包んだ。
悪魔の呪いをすべて失い、完全な獣へと退行したリツ。彼をこの治安の悪い炭鉱街に置いておけば、すぐにでも人間に駆除されるか、見世物にされてしまうだろう。
私はアパートを出て、煤煙の届かない街の境界線――緑の深い、静かな野生の森へと向かった。
生い茂る木々の隙間から、柔らかな木漏れ日が降り注ぐ。錆びた鉄と煙の匂いしか知らなかった私にとって、土と草の匂いはひどく新鮮だった。
大きな大樹の根元にたどり着き、私はリツを包んでいた布をそっと広げた。
「ここなら、誰も来ないよ。……行きなさい、リツ」
地面に降ろされた蛍光黄緑の蛇は、一瞬、戸惑うようにその場に留まった。
私はリツの姿を見つめながら、胸の奥からせり上がってくる激しい感情を抑えきれなかった。サチを失った時でさえ流さなかった涙が、今になって、止めどなく頬を伝って流れ落ちる。
私は彼を愛さなかった。心を閉ざし、彼の純粋すぎる好意を何度も冷酷に踏みにじった。それなのに、彼は私を人間に戻すためだけに、自分のすべてを捧げて、ただの獣に戻ってしまった。
「ごめんね……、リツ。愛してあげられなくて、ごめんなさい……」
ポツリ、と私の顎から、一滴の涙が地面へ零れ落ちようとした、その時だった。
野生に帰るはずだったリツが、するりと私の膝を這い上がってきた。
冷たい鱗の感触が、私の手の甲をなぞる。蛇は私の顔のすぐ近くまで頭を寄せると、頬を伝う私の涙を、その二つに裂けた舌で、そっと優しく舐めとった。
「――あ」
リツの琥珀色の目が、ほんの一瞬だけ、あの愛おしげな少年の輝きを取り戻したように見えた。
蛇は、かつて私に抱きしめられていた時のように、一度だけ、喉の奥をシュ……、と切なげに鳴らした。それは、人間の思考を完全に失ったはずの獣が、魂の最深部に刻まれた『愛』だけで起こした、最後の、そして最大の奇跡だった。
喉を鳴らし終えると、リツはそれ以上振り返ることなく、青緑色の身体を滑らせて、深い茂みの奥へと消えていった。蛍光黄緑の美しい模様が緑の葉に溶け込み、見えなくなるまで、私はずっとその背中を見つめ続けた。
リツの気配が完全に消え去った、その瞬間。
ドクン――ッ!!!!
私の胸の奥で、大地を揺るがすような、猛烈な大爆発が起きた。
「が、はっ……あ、あああああッ!」
私はたまらず草むらに両手を突き、激しく咽び泣いた。
背中の影から這い出ていたサチの『灰色の狼の四肢』が、悲鳴を上げるように激しくのたうち回り、そのまま霧のように霧散していく。代わりに、私の肋骨の奥、空洞だったはずの場所に、凄まじい熱量を持った「肉の塊」が急速に再生していく。
ドクン、ドクン、ドクン。
それは、間違いなく私のものだった。白い神父に破壊され、二度と戻らないはずだった『人間の心臓』。
リツがその命と引き換えに仕掛けた、世界のシステムを騙す最大のバグ。極悪人を悪魔化させることで因果の帳尻を合わせ、私の身体に、本物の心臓を定着させたのだ。
涙が止まらない。視界が滲む。
けれど、私の胸からは、ドロドロとした灰色の呪いの気配は完全に消え失せていた。衣服を破って流れ出る血は、悪魔の赤黒い血ではなく、鮮やかな、温かい人間の赤だった。
私は人間に戻った。リツの純粋すぎる愛の奇跡によって。
しかし、胸に宿った人間の心臓が刻むビートは、失った悪魔たちの重みを、これまで以上に重く、残酷に私に自覚させるものだった。




