第六話 まだまだの現場
搬入口をくぐった瞬間、空気が変わった。
外の冷えた朝とは違う。倉庫の中は熱がこもっている。
魔導照明の光が白くきつい。機材車の横には資材ケースが積まれ、床には養生テープが雑に這っていた。誰かの怒鳴り声が飛ぶたびに、台本を持ったスタッフが小走りで向きを変える。
軽食の空き箱。飲みかけのエナドリ。よく分からない消臭剤の匂い。規模はでかいが、漂っている空気はやたら見覚えがあった。
適当な現場だ。
「そこの箱、第三控室前まで!」
「あ、はい」
返事をしながら資材箱を持ち上げる。重い。だが持てないほどじゃない。
第三控室前。番号札を探し、途中でコードの束を跨ぎ、止まりかけている台車を避ける。ついでに通路の真ん中に置きっぱなしになっていた細長いケースを壁際に寄せた。
「悪い、助かる!」
知らないスタッフにそう言われる。
なんで俺は普通に働いてるんだ。
潜り込むのが目的だったはずなのに、入った瞬間から仕事が生えてくる。
箱を置いて戻ろうとしたところで、背後から声が飛んだ。
「おい、そこの兄ちゃん。今日から?」
振り向くと、首からスタッフ証を下げた三十代くらいの男が台本を片手にこっちを見ていた。
「え、まあ」
「妙に手慣れてるな」
「会社員なんで」
自分でも意味の分からない返しだったが、相手は妙に納得した顔で頷いた。
「あー、そういうやつか。じゃあ悪いけど、この導線ちょっと見といて。搬入と出演者動線、まだ噛んでんだよ」
そういうやつって何だ。
思ったが、言ってる暇はなかった。
見れば確かに、搬入ルートと出演者の移動が中途半端に重なっている。人が多い時間帯にここで詰まれば、まあ、厄介だな。
ケースの位置を少しずらし、養生テープの上に置かれた台本箱を持ち上げて壁際へ寄せた。通路が半歩広がる。
それだけで、少し流れが良くなった。
こういうのばっかりだ。
別に雑用をしに来たわけじゃない。
でも、ついやってしまう。
その時、控室前の人だかりの向こうに、一人だけ明らかに空気の違う子が見えた。
ぱっと見は女子高生だ。
実際の年齢も、そのくらいだろう。まだ十八前後。小柄で、顔立ちも幼い。
衣装の上から羽織った薄手のパーカーは少し大きく見えた。戦闘向きの軽装のはずなのに、服に着られている感じもする。
でも、前に出されるだけのスキルはあった。
短剣術B。反応速度B。身体強化C。回避C。
台本に何度も目を落とす。ベルト位置を直す。マイクテストの返事が少し上ずる。笑おうとして、頬の筋肉だけが先に動く。
ああ、この子、まだ全然慣れてない。
そう思った瞬間、近くでスタッフが声を上げた。
「ミアちゃん、先に装備確認いくよー」
軽い声だった。
呼ばれたミアはびくっと肩を揺らし、それでもすぐに「はい」と返した。
返事をした拍子に、手に持っていた台本の端を床に落とす。
「あ……」
すぐ拾おうとして、今度はペンまで転がした。
返事だけはちゃんとしている。
気づけば、その後を目で追っていた。
装備確認は、簡易パーティションの向こうで行われていた。
マネージャーと、補助スタッフと、さっきのミア。机の上には予備装備と薬瓶が並んでいる。
「最初の見せ場だけだから、そんなに気負わなくていいよ」
マネージャーが軽く言う。
軽い。嫌な方の軽さだった。
補助スタッフがベルトポーチを開け、薬瓶を二本手に取る。一本を戻す。
ミアが、その手元を見た。
「あの、回復薬……」
「一本で大丈夫。軽い方が映えるから」
何でもないことみたいに言う。
「でも、台本だと補助班の合流は第二区画で」
「そこまで行かないよ。入口で反応取って、一本切って、剣士組に繋ぐだけ」
台本。
その単語で、足が止まりそうになった。
ミアは少しだけ黙った。反論するほど強くはない。でも、納得もしていない顔だった。
「最初だけだから」
マネージャーがもう一度言う。
「君、スキルはちゃんとあるんだから。そこでビビられると困るんだよね」
ミアは、小さく「はい」と答えた。
声がさらに細くなっている。
立つ位置を少し変えた。すぐには動かない。まだ飛び込む段階じゃない。
近くの棚に置かれていた簡易救急セットの位置を覚える。水の箱の場所も。控室から入口までの距離も、途中で詰まりそうな通路も。
ついでに、床の端に転がっていた予備の回復薬を拾う。こんなものまで転がしてるのかと思って棚へ戻しかけたところで、別のスタッフに呼ばれた。
「ちょっと、これ持つの手伝って!」
仕方なく、そのまま胸ポケットに突っ込む。
パーティションの向こうへ回る。
何かあった時に、どこから動くかだけは頭に入れておく。
こういうの、だいたいみみっちい確認ばっかりだ。
そのすぐ先で、ミアが装備のベルトを締め直した。
指が少し震えている。
わざと資材箱を抱えたまま、その近くを通った。
「靴、結び直した方がいいですよ」
少女が驚いた顔で振り向く。
「え?」
「転ぶと洒落にならないんで」
余計なお世話だと思われたかもしれない。
でも、少女は一拍遅れて、足元を見た。
少しだけ緩んでいた靴紐に、自分でも気づいたらしい。
「……ありがとうございます」
小さな声が背中に届く。
その時、別のスタッフが走ってきた。
「ミア、入口リハ先にやるって。剣士組まだメイク押してるから、こっちだけ回すってさ」
ミアが顔を上げる。
「え、でも台本だと、先に機材確認してから――」
「変更。今のうちに反応取る」
さらっと言われる。
マネージャーも止めない。
むしろ「じゃ、それでいこうか」と軽く頷いた。
そこでようやく、嫌な予感がはっきりした。
準備段階から、もう前倒しで削りに来ている。
ミアは、まだ覚悟も整っていない顔のまま入口側へ促される。
無意識に、手の中の資材箱を持ち直していた。
このまま何事もなく始まればいい。
そう思ってるのに、手の汗だけは止まらなかった。




