第三話 見たよね。お願い。助けて。
朝の騒ぎでそのまま欠勤、とはならなかった。
ダンジョン発生以降、モンスター対応中の負傷や巻き込まれは一応労災扱いになる。便利になったのか、面倒になったのかはよく分からないが、少なくとも今回は遅刻扱いで済んだ。
警備だの救急だのに囲まれて名前と勤務先を伝えたあと、俺はそのまま会社へ向かった。
スーツの袖にはまだ少し血がついていた。
トイレで洗ったが、うっすら残った。
鏡を見る。
黒髪は朝のまま少し跳ねていて、顔色もあまり良くない。
ぱっとしない顔まで、いつも通りだった。
「相原、朝から災難だったな」
出社して一発目の上司の言葉がそれだった。
労いというより、必要事項の確認に近い声だった。
「一応、労災の申請書は総務に回しておいてくれ。駅前ダンジョンの件だろ?」
「はい」
申請書の名前欄に、相原 恒一と書く。
「ニュースにもなってたぞ。人気配信者がどうとか」
そこで上司は一度だけ俺の顔を見て、それ以上は興味を失ったように自席へ戻った。
まあ、そうだろう。
俺だって他人の席で同じことが起きたら、そのくらいの反応しかしない。
会社は今日も普通に回る。
昼の弁当注文は誰かがまとめなければならない。
午前中だけで、会議の人数変更、取引先との時間調整、欠席した先輩の資料印刷まで回ってきた。
昼休み、後輩がスマホを見ながら言った。
「先輩、朝のやつ、切り抜き上がってましたよ」
「もう?」
「早い人ほんと早いですね。ほら、この人気探索者が運ばれてくとこ」
差し出された画面を、見る前に手で押し返した。
「いい」
「え?」
「飯食ってる時に見るもんじゃない」
後輩は少し気まずそうに笑って、あ、すみません、とスマホを引っ込めた。
別に怒ったわけじゃない。
ただ、見たくなかった。
見たら仕事にならない。
……いや、もうなってないか。
胸ポケットのあたりが、仕事中ずっと少し重かった。
そこに入れたSDカードを、何度も意識していた。
前日。
それだけ書かれた、血のついた小さなカード。
昼も、午後も、会議中も、メールを書いている時も、頭の片隅にずっとあった。
気になる。
でも、見たら面倒になる。
絶対。
だから定時まで放置した。
放置したが、定時になった瞬間にまっすぐ帰った。
寄り道をする余裕はなかった。
家まで我慢できるほど落ち着いてもいなかった。
結局、最寄り駅の一つ手前で降りて、人気の少ない小さな公園に入った。
ベンチの塗装は剥げ、街灯は一本だけ切れている。
いまどき珍しく、ダンジョンも生えていない。
そういう中途半端な場所の方が、妙に都合がよかった。
スマホにSDカードを差し込む。
「……ほんとに見るのかよ」
誰もいないので、一応口に出しておく。
止めるやつはいない。
動画ファイルは一つだった。
日付は昨日。再生時間は二十三分。
嫌な長さだ。
再生する。
最初に映ったのは、白い会議室だった。
安っぽい長机。ペットボトルの水。壁際に積まれたスポンサー商品の箱。
配信前日の打ち合わせらしい。
剣士の男が椅子の背にもたれてスマホを見ている。魔法使いの女は資料に目を通していた。カリンは端の席に座って、配信用の軽装の上から薄いパーカーを羽織っている。
画面の向こうの人気者たちなのに、会議室の空気は妙にしょぼかった。
『じゃ、明日の導線もう一回だけ確認ね』
声の主は、昨日駅前で青ざめていたスタッフではなかった。
三十代半ばくらいの男。ジャケット姿。胸元にスポンサー章。
たぶんこいつがマネージャーだ。
机に置かれた資料を指先で叩きながら、そいつは言った。
『最初の見せ場はカリンちゃんから。入口入って十分で先行、索敵、罠解除。そこでコメント温めて、二層目手前で剣士に繋ぐ』
カリンが小さく手を挙げた。
『あの、昨日の下見より反応増えてませんでしたよね?』
『増えてたら増えてたで美味しいでしょ』
軽く返される。
カリンは一度口を閉じた。代わりに魔法使いの女が資料から目を上げる。
『いや、さすがに危険度変わるなら話は別じゃない?』
『変わってないって。現地の簡易鑑定でも誤差範囲』
『でも昨日――』
『大丈夫大丈夫。そういう慎重すぎるの、今数字落ちるから』
言い方が軽い。
嫌な軽さだった。
剣士の男は画面の端で笑っている。
『ま、カリンならいけるっしょ。いつも一番映えるし』
カリンは笑わなかった。
ただ、手元の資料に目を落とした。
その視線の先に、赤字の注意書きが映った。
**回復薬 二本**
少なすぎる。
探索者の常識は知らないが、あの怪我を見た後だと、それでも少なすぎるのは分かる。
『回復薬、もう少し増やした方が――』
『重いからいらない。どうせ後ろに回復役いるし、カリンちゃん軽い方が動けるでしょ』
『でも、その回復役って今回は外部同行で、合流遅れる可能性――』
『だからそこは、君が上手くやるんだよ』
マネージャーは笑った。
笑ったまま、資料の端を指で弾く。
『今日スポンサー入るんだから、そこで無難にまとめても意味ないでしょ。見せ場作って。そこを数字に変えるのが仕事なんだから』
カリンは黙った。
魔法使いの女も、今度は何も言わない。
剣士の男だけが気楽そうに言った。
『サムネもカリン前でいいんじゃね?』
『いいね、それ。薄い方の衣装でいこうか』
『いや、あれ防御ほとんど――』
そこまで言って、カリンは口をつぐんだ。
マネージャーが笑顔のまま視線を向けていた。
映像の空気が、そこで一度冷えた。
俺はベンチの上で、無意識にSDカードの端を指で押さえていた。
なんだそれ。
そういうことかよ。
動画はそこで終わらなかった。
画面が一度暗くなり、数秒のノイズが走る。
画面が暗くなって、次はカリンの顔が近すぎる距離で映った。
薄暗い。控室か、トイレか。
笑ってないのだけはすぐ分かった。
『これ、もし見てるなら』
小さな声だった。
俺は無意識に姿勢を正していた。
カリンは画面の向こうで一度だけ息を吸って、それから言った。
『見たよね』
数秒、沈黙がある。
そこで、ようやくカリンの声が震えた。
『お願い。助けて。』
動画はそこで切れた。
公園の空気が、急に冷えた気がした。
スマホの画面は真っ黒なのに、しばらく指が動かなかった。
助けて、って何を。
いや、分かる。分かるけど。
朝たまたまそこにいただけだ。
なんで俺なんだよ。
見なかったことにしたい。
でも、できない。
小さなSDカード一枚で、帰り道がぐちゃぐちゃだった。
その時、スマホが震えた。
知らない番号からのメッセージだった。
本文は短い。
来て。
その下に、病院名と病室番号が続いていた。




