第二話 修羅場に箒は含まれますか?
カリンの腹に圧迫をかけたまま、呼吸を見る。
浅い。けど、ある。
出血は酷い。
でも、まだ大丈夫なはずだ。
内臓は見えてない。多分。
押さえる。固定する。早く来い。
「カリンさん。聞こえますか」
薄く開いた目が、どうにかこちらを見た。
焦点は合っていない。それでも、何かを伝えようとしているのは分かった。
カリンの指が、血で滑りながら俺の手首を掴む。
力は弱い。けれど、妙に必死だった。
「……配信に……」
掠れた声が漏れる。
「はい?」
「……映って、ない……」
そこで喉が詰まる。
カリンの手が俺の胸元を掠めた。シャツの胸ポケットのあたりに、何かを押しつけるような感触がある。
でも、そんなのを確かめている余裕はない。
「ちょっと、今は喋らなくていいです」
そう言った時だった。
ダンジョンの入口の奥で、壁際に張りついていた細長い影が、ぬるりと前へ出た。
悲鳴が上がる。
今度は、さっきよりはっきりと。
犬みたいなのに、胴だけが妙に長い。
顔が縦に割れている。しかも歯が多すぎる。
気色が悪い。
強いかどうかは知らない。
でも、駅前に出していいツラじゃなかった。
「うわっ、出た!?」
「まだいたのかよ!」
「逃げろ!」
野次馬が一気に崩れる。
誰かが走り出し、誰かが転び、誰かがまだスマホを向けたまま後ずさった。
回復魔法、回復魔法、とさっき叫んでいた男は、今度は自分が逃げることしか考えていない顔になっている。
スタッフらしい男は青ざめたまま機材を抱えて固まっていた。
うわ、出た。マジかよ。
心臓が嫌な跳ね方をする。足が一瞬だけ逃げろと言った。いや俺も逃げたい。逃げたいに決まってる。
このまま全員で喚きながら潰れたらもっとまずい。
でも、この感じは知ってる。嫌って程。
酔っ払い二人が喧嘩して、一人が吐いて、一人が店の外に飛び出して、しかも店長がいない時の空気だ。
「黒パーカー、そのまま通話切るな! 救急車と警備、両方寄越せって言って!」
「え、け、警備も!?」
「モンスター出てるだろ! 見りゃ分かる!」
「は、はい!」
「白シャツ! 逃げるのは後! まずカリンさんの前、空けて!」
「お、おう!」
「スタッフ! 機材抱いて固まってないで、それ置いて柵閉めろ!」
「え、えっと、ど、どっちを」
「機材を置いてから柵! 順番にやれ!」
「で、でも今切ったら……」
「切らなきゃもっと終わるだろ!」
口が勝手に動く。
誰かが反射で従う。
なんでだよ。こっちだって余裕なんかない。
うるさいやつの外見が、ハゲのおっさんか化け物かの違いだけだ。
モンスターは低く唸りながら首を振った。すぐには飛びかかってこない。
やばい。来る。けどまだ来ない。だったらその間に何とかするしかない。
離れたくはない。けど、ここに張りついたままだとまとめて終わる。
俺はカリンから一歩だけ距離を取り、周囲を見た。
入口脇の清掃用具入れ。半分開いてる。
中身は――箒、ちり取り、短いモップ、予備のゴミ袋。
使えそうなのは。
箒?
は?
いや待て待て待て。掃除か。掃除なのか。掃除でどうにかしろってことか?
意味分かんねえよ、と心の中でだけ毒づいたが、ないよりマシだ。
俺は一番長い箒を掴んだ。
軽い。安っぽい。武器としては終わってる。
でも、直接触るよりはましだろ。
モンスターは壁沿いに這うように動く。
真正面から殴る気はない。たぶん飛びついて、噛んで、すぐ引くタイプだ。
なら、近づかせなければいい。
「白シャツ! その看板、倒して入口の横に立てて!」
「看板?」
「いいから! 進路狭める!」
立入禁止の看板を白シャツが半泣きで引きずる。
「スタッフ、柵! 全部閉めなくていい、左だけ寄せろ!」
「ひ、左!?」
「そっちは塞いで、こっちに道作る!」
人が動く。道ができる。
モンスターの進む線が少しだけ絞れる。
俺は箒の柄を前に出しながら、じりじり位置をずらした。
モンスターの顔がこちらへ向く。
来る。
次の瞬間、そいつは地面を滑るように跳ねた。
速い。
でも、まっすぐだ。
俺は半歩引いて、箒の先でその顔を横から払った。
まともなダメージは入らない。
だが、狙いはそれでいい。
軌道が少しずれた。
モンスターの肩が倒した看板にぶつかる。金属が嫌な音を立て、そいつの動きが一瞬止まった。
「今!」
何が今なのか、自分でもよく分からないまま叫んだ。
でも、その声に釣られたのか、白シャツが柵を押し込む。
ずれた柵がモンスターの後ろ脚を挟んだ。
悲鳴みたいな鳴き声が上がる。
俺はその隙に箒の柄で地面を叩き、さらに注意を引いた。
倒せはしない。
でも、カリンから遠ざけることはできる。
それで十分だ。
「まだ来るな! そっちは離れてろ!」
黒パーカーが通話しながら頷く。スタッフはようやく機材を捨て、柵を押さえる側に回った。
その時、広場の反対側から低い破裂音がした。
警備だ。
簡易魔法弾か、何かの制圧具か。詳しくは分からないが、モンスターの頭が跳ねた。
さらに二発。
細長い体が大きく痙攣し、そのまま地面に叩きつけられる。
ようやく、周囲の音が戻ってきた。
救急車のサイレン。
遠巻きのざわめき。
誰かが「助かった」と言う声。
助かったのは俺じゃない。
俺はたまたま立ってただけだ。
助かるならカリンでいい。
俺はすぐに箒を放り出し、彼女のそばへ戻った。
意識はもうほとんどない。けれど、さっきより呼吸は落ち着いている。
そこへ救急隊と、簡易結界装備の警備員たちが駆け込んできた。
担架。止血確認。搬送。
流れ始めた現場は、俺がいなくてももう回る。
ようやく終わった。
救急車がカリンを運び、警備がダンジョン入口を塞ぎ、野次馬もようやく散り始める。
その段になって、胸ポケットのあたりが妙に気になった。
そういや、さっきカリンの手がここに触れたな、と今さら思い出す。
色気のある話ならよかったんだけどな、なんて少しだけにやついて、指を入れる。
そこで、固い感触に触れた。
引き抜く。
血で汚れた、小さなSDカードが一枚。角が少し欠けていた。
端の白いラベルに、油性ペンで二文字だけ書かれていた。
**前日**




