第二十話 二次会までが仕事です
翌朝になっても、カリンから連絡はなかった。
俺からも送っていない。
『次の現場には来ないでください』
あそこまで明確に言われて、何度も連絡を入れるのは違う。
パソコンを開き、未処理のメールを上から片づける。会議資料の数字を直し、担当者へ確認を送り、印刷された座席表へ変更を書き込む。
仕事をしている間だけは、余計なことを考えずに済む。
そう思っていたのに、資料の余白を見るたび、第三通路の地図が重なった。
救護班の待機場所から遠く、入口から奥が見えない。先頭を歩くのはミアだ。
地図の上に機材と人を置いていけば、退路から順に埋まっていく。
マウスを握ったまま手が止まり、隣の席からキーボードを叩く音だけが聞こえてきた。
考えたところで、今の俺には何もできない。
画面へ視線を戻したところで、未読メールが一件増えた。差出人は総務。全社会議の参加人数変更。
カリンの代わりに、会社が面倒を寄越してきた。
全社会議が終わったのは、予定を二十分過ぎた頃だった。
午前中から並べた机を戻し、回収した資料を部署ごとに分け、置き去りにされた名札を箱へ放り込む。
ようやく自席へ戻れると思ったところで、課長の手が肩に乗った。
「相原。今日の二次会、頼めるか」
「嫌です」
「即答するなよ」
「今日はもう、十分働きました」
午前中は会場準備。午後は議事進行。立食の懇親会が始まってからは、座席変更に資料不足、遅れて来た社員の誘導まで押しつけられた。
これ以上は勤務ではなく、罰ゲームに近い。
「担当が顧客対応で抜けたんだよ。店自体は押さえてある」
「参加者は何人ですか」
「三十人くらい」
課長の目が、俺の肩越しへ逃げた。
「今は何人ですか」
「ちょっと増えて、五十八」
「予約は三十人ですよね」
「だから頼んでる」
課長は胸の前で両手を合わせた。後ろを通った社員が、それを見なかったことにして足を速める。
「役員も何人か行くらしい」
「それを先に言ってください」
「相原なら回せるだろ」
卑怯な言い方だった。
無理だと言えば、できない人間のように聞こえる。
「貸しですからね」
「分かった、分かった」
分かっていない人間の返事と一緒に、折り目だらけの参加者一覧を渡された。
今日は早く帰るつもりだった。
第三通路の地図をもう一度見直して、何か見落としがないか考える。それくらいしかできなくても、何もしないよりはましだと思っていた。
だが、名簿を開いた途端、名前の横に別の情報が並び始める。
地方から来ていて終電が早い人間。一次会ですでに顔の赤い社員。役員。若手。酒を飲まない組。遅れて合流する営業部。
五十八人を一店舗へ押し込む形を考えかけ、すぐに捨てた。
「課長。駅の反対側に系列店がありましたよね」
「あるけど」
「二店舗に分けます。元の店に三十二人、向こうに二十六人。地方組は駅に近い方へ。役員も割ります」
「役員を分けていいのか?」
「固めたら、周囲の若手が接待係になります」
「ああ……確かに」
「各店に会計担当を一人置きます。遅れる三人は店へ直接。終電が早い人は、最初に会費を集めておきます」
返事を待たず、系列店へ電話をかけた。
予約担当者へ事情を説明し、席の形と人数を確認する。通話中に後輩へ参加者用チャットを作らせ、二店舗の地図を貼らせた。
役員の名前を左右へ振り分け、部署の偏りを崩す。一次会で飲みすぎた人間は、なるべく上司の近くへ置かない。酒を勧められて断れないからだ。
紙の上で五十八人が動き、空いていた椅子へ収まっていく。
「相原さん、なんか楽しそうですね」
隣でチャットを作っていた後輩が言った。
「楽しくない」
「でも、さっきからすごく速いですよ」
「一分でも早く帰りたいだけだ」
営業部三人の配置を入れ替える。
役員の隣へ営業を置けば、その場で仕事の話が始まる。懇親会の続きが、会議の延長になるだけだ。
「その顔で言われても、説得力ないですけど」
「どういう顔だよ」
「詰まってたものが流れて、気持ちよさそうな顔です」
反論しようとした時、系列店から連絡が入った。
一卓だけ、団体客が長引いて使えないらしい。
参加者一覧へペンを走らせ、六人席を四人と二人に崩す。二人は途中参加の営業と入れ替えれば、席を空けて待つ必要もない。
「相原さん」
「今度は何だ」
「やっぱり楽しそうです」
「仕事しろ」
名簿を畳んだ時には、朝から頭に引っかかっていた通路の暗がりが、どこかへ押しやられていた。
二次会が始まってからも、椅子に腰を下ろす暇はなかった。
遅れて来た営業を空席へ通し、追加注文を二店舗分まとめる。地方社員の精算を先に済ませ、酒を飲まない人間の前には、揚げ物ではなく残っていた刺身とサラダを寄せた。
役員が若手社員を一人捕まえ、身振りを交えながら昔の仕事の話をしている。
若手のグラスは、十分ほど前から空のままだった。
近くにいた顔の広い部長へ声をかけ、役員の話へ割って入ってもらう。部長が昔の案件名を出した途端、役員の顔がそちらへ向いた。
若手は椅子を引き、俺の横を通り抜ける時に小さく頭を下げた。
「相原さん、飲まないんですか」
後輩が俺の前に置かれた烏龍茶を見る。
氷はもう半分以上溶けている。
「飲んだら、最後に誰が人数を確認するんですか」
「幹事って大変ですね」
「好きでやってるわけじゃない」
答えながら、空いた皿を三枚重ねた。
料理を運んできた店員が両手を塞いでいたので、そのまま皿を受け取って渡す。空いた卓へ人を一人ずつ移せば、通路を塞いでいた立ち話の輪も自然にほどけた。
後輩が、まだこちらを見ている。
「何ですか」
「いや。手慣れてるなと思って」
「何年会社員をやってると思ってるんだ」
店内へ目を向ける。
普段はほとんど関わらない部署同士が、料理を挟んで笑っている。一次会では壁際に立っていた若手も、今は別部署の同期とスマホを見せ合っていた。
誰かが席を立つと、空いた場所へ別の誰かが入る。
注文は途切れず、会計も止まらない。
人が動くたびに、次に空く場所が分かった。
烏龍茶へ手を伸ばしかけたところで、入口から二人増えた。椅子を足し、料理を一皿移し、会費を受け取る。
気づけば、喉が渇いていることも忘れていた。
終了予定まで、あと十五分。
そろそろ各店の人数を確認しようとスマホを取り出した時、店の奥から後輩が駆けてきた。
「相原さん、ちょっと来てください」
声の調子で、大体の予想はついた。
廊下へ出ると、一次会から飛ばしていた社員が、出口脇の壁へ片手をついていた。
足元には、見なかったことにできないものが広がっている。
「うわ」
モンスターよりは見慣れていた。
少なくとも、噛みついてはこない。
「ここは使わないでください。帰る人は奥の出口から回してください」
様子を見に来た社員を反対方向へ流す。
吐いた本人は膝に力が入らず、同じ部署の社員に肩を支えられていた。
「袋をもらってきてください。本人は横向きに。仰向けに寝かせないで」
「水、飲ませた方がいいですか」
「今は口を濯ぐだけで。意識が落ちたらすぐ呼んでください」
店員から清掃道具を借り、汚れの外側へ新聞紙を敷く。
床には、すでに一人分の靴跡が続いていた。廊下を曲がり、トイレの前で途切れている。
視線を上げると、様子を見に来た社員の一人が、右足だけ妙に浮かせていた。
「その靴、上げてもらえますか」
「え、俺?」
「踏んでます」
恐る恐る靴底を見た社員の顔が引きつった。
「うわ、最悪」
「歩き回る前でよかったです。これで拭いてください」
雑巾を渡し、床へ残った跡を追う。
洗剤を薄め、外側から内側へ拭き取る。臭いが広がらないよう袋を閉じる頃には、吐いた本人も少し返事ができるようになっていた。
同僚一人を付き添わせ、タクシーへ乗せる。
店へ清掃代を確認し、座席とトイレの忘れ物を回収した。片方だけのワイヤレスイヤホン、折り畳み傘、社員証。どうして会社の飲み会では、毎回一つくらい身元を置いて帰る人間がいるのだろう。
店内へ戻ると、照明が少し明るくなっていた。
ついさっきまで人で埋まっていた席には、空のグラスと濡れたおしぼりだけが残っている。
俺の烏龍茶も、誰にも片づけられずテーブルの端に置かれていた。
一口飲む。
氷はすべて溶け、妙に薄かった。
「……何やってるんだろうな」
トイレで手を洗う。
石鹸を二度使っても、鼻の奥にはまだ消毒液と酒の匂いが残っていた。
顔を上げると、鏡の中に疲れた会社員が立っている。
ネクタイは曲がり、シャツの袖には水が跳ねていた。
その肩口に重なるように、スキル欄が浮かぶ。
《幹事B》
文字の末尾がぼやけ、小さな光が集まった。
《幹事B+》
数秒遅れて、もう一つの表示が揺れる。
《清掃C》
こちらにも、控えめな光が走った。
《清掃C+》
五十八人を二つの店へ詰め、酔っ払い一人をタクシーへ乗せ、最後に床を拭いた。
その結果が、これらしい。
「そこが上がるのかよ」
剣術でも、魔法でもない。
鏡の中の俺は、濡れた手を振っているだけだった。
「地味だな……」
表示は何も答えず、淡くなって消えた。
店を出ると、汗の残った首筋へ夜風が入った。
駅前には、二次会を終えたらしい集団がいくつも固まっている。笑い声と呼び込みの声が混ざり、タクシー乗り場の列だけが静かに伸びていた。
スマホが震えた。
カリンかと思い、取り出す手が少しだけ速くなる。
表示されていたのは、知らないアカウントだった。
『相原さんですよね』
足が止まる。
続けて、もう一通届いた。
『カリンさんには言わないでください』
アカウント名を確認する。
ミア。
薄かった酔客の声が、急に遠くなった。
三通目が表示される。
『次の配信、私が渡された進行表だけ違います』




