第十九話 何も起きなかったので
翌日の午後、制作会社の会議室へ呼ばれた。
窓のない部屋だった。
白い机の中央に、施設管理側から届いた報告書が置かれている。表紙の隅には受領印が押され、その横に付箋が何枚か貼られていた。
参加者は俺とカリン、久世。カリンのマネージャーと、昨日同行していた撮影スタッフもいる。
久世が報告書をめくった。
「無許可の誘導具が一本。設置者は不明。大型反応との因果関係も確認できず、か」
紙を繰る音だけが、やけに大きく聞こえる。
「大型反応が第二通路へ向かっていたのは事実です」
久世の指が止まった。
「でも、来なかった」
「封鎖した後ですから」
「封鎖しなくても来なかったかもしれないよね」
報告書が閉じられた。
久世は表紙を指先で軽く叩く。
「施設管理側の見落とし、という整理でいいんじゃない?」
「管理側の設置物ではありません。使用申請も出ていなかったそうです」
「だから、勝手に置かれたものを見つけられなかったんでしょ」
久世は椅子へ背を預けた。
「管理できてなかったってことじゃん」
撮影スタッフの前に置かれた紙コップが、空調の風でかすかに震えていた。
本人は机へ目を落としたまま、何も言わない。
「映像は残っています」
声を向けると、スタッフが顔を上げた。
「杭と、施設側の人が説明しているところも撮れていましたよね」
「はい。残っています」
久世は頷いた。
「じゃあ、素材は会社のサーバーに上げておいて。撮影データだから、外には出さないように」
スタッフが一瞬だけこちらを見てから、短く返事をした。
削除する必要はない。
会社の中へ収めればいい。
「相原さんの写真も、業務中に撮ったものだよね」
今度は俺へ視線が向く。
「状況を記録するためです」
「分かってるよ。責めてるわけじゃない」
久世の笑顔は変わらなかった。
「契約書に、業務上取得したデータの持ち出し禁止ってあったでしょ。念のため確認しただけ」
返事を待つような間ではなかった。
久世は報告書を脇へ寄せ、手を組んだ。
「危険を見つけたこと自体は問題ないんだよ。ただ、その場で撮影中止まで話を進められると困る」
「中止を決めたのは施設管理側です」
「そうだね」
あっさり認めたあと、久世の視線が隣へ移った。
「相原さんを下見へ連れてきたのは、カリンちゃんだよね」
カリンのマネージャーが、揃えていた書類から一枚を抜いた。
「今回の経緯を確認します」
ペン先を紙の上へ置く。
「カリンさんが予定変更に不安を感じ、相原さんへ安全確認を依頼した。その確認中に施設側へ封鎖を要請し、撮影予定が変更された。こちらの認識で相違ありませんか」
「違います」
椅子から身を起こす。
「杭を見つけたのも、封鎖を求めたのも俺です。カリンさんから頼まれたのは、下見への同行だけで――」
「はい」
カリンの声が重なった。
横を見る。
カリンは膝の上で両手を組み、マネージャーを見ていた。
「私が、安全確認をお願いしました」
「封鎖までは頼まれていません」
「相原さんには、私から現場を確認してほしいと頼みました」
こちらへは目を向けない。
マネージャーのペンが、紙の上を走った。
「では、カリンさん側からの要望による予定変更として処理します」
「何の処理ですか」
「スポンサーへの説明だよ」
久世が答えた。
「撮影が止まれば、人も機材も組み直しになる。今回は下見だったからまだ調整できたけど、本番で同じことをされたら困るんだ」
「本番で誘導具が見つかっても、続けるんですか」
「状況を見て判断するよ」
「誰がですか」
「俺が」
迷いのない声だった。
以前と同じ答えだ。
久世はカリンへ向き直った。
「次からは、現場を混乱させないようにしてね」
「はい」
「また撮影が止まるようなら、契約に沿った対応になる。スポンサーにも、毎回説明できるわけじゃないから」
違約金という言葉は出なかった。
カリンの親指が、反対の手の甲を一度だけ強く押した。
「じゃあ、次の進行を確認しようか」
久世が新しい進行表を配った。
「第二通路は使わない。代わりに第三通路へ変更する」
地図を開く。
昨日調べた区画とは反対側だった。第一通路より奥にあり、入口脇の救護区画からも遠い。曲がり角が二つ挟まり、担架を通すには幅も狭い。
「下見はいつですか」
「前日の午後」
「機材配置まで含めたら、安全確認が間に合いません」
久世は少し眉を上げた。
「だから相原さんに入ってもらってるんでしょ」
本当に話が通じていない時の顔だった。
「何か起きても、撮影を止めずに済むように回してよ」
会社を出ると、カリンは駅とは反対方向へ歩き始めた。
帽子を深く被り、人の流れから外れるように歩道の端へ寄っていく。
「カリンさん」
追いついて隣へ並ぶ。
「さっきの話、俺が決めたことです」
「分かっています」
「なら、カリンさんの要望として処理させる必要はなかったでしょう」
カリンは足を止めなかった。
「相原さんの契約、切られますよ」
「それで済むなら構いません」
「済まないかもしれないから言ってるんです」
交差点の信号が赤に変わり、二人の前を車が流れていく。
カリンはそこで足を止めた。
「次の現場には来ないでください」
「何を言ってるんですか」
「相原さんが何かを止めるたびに、私が止めたことにされます」
「それは向こうが勝手に――」
「次は、相原さんにも何かされるかもしれない」
通り過ぎたトラックの風が、帽子のつばを揺らした。
昨日の暗い通路が浮かぶ。
壁へ打ち込まれた杭。
床を伝って近づいてきた音。
報告書には、因果関係不明と書かれていた。
「だから行かない、という話にはならないでしょう」
カリンがようやくこちらを見た。
「俺が行かなかったら、誰が止めるんですか」
信号が青に変わる。
周囲の人間が一斉に歩き出したが、カリンだけは動かなかった。
しばらくして、帽子の下から息が漏れた。
「止める人なんて、最初からいないんです」
声は静かだった。
「いたら、私は相原さんに頼んでません」
カリンは横断歩道を渡り始めた。
追いかけようとして、足が動かなかった。
人の背中がいくつも間へ入り、帽子の影が遠ざかっていく。
昨日、誰も怪我をしなかった。
その代わり、会議室の書類には、杭を置いた人間ではなく、カリンの名前が増えた。




