第十七話 安全すぎる現場
本番三日前。
歩くたび、胸元のスタッフ証が揺れた。
借り物ではない。名前も顔写真も、今度こそ相原恒一のものだった。
撮影場所は、湾岸倉庫街から車で二十分ほど離れた地下商業施設跡だ。剥がされた案内板の跡が壁に残り、閉鎖された店舗のシャッターが通路の両側に並んでいる。入口から第三層までは探索済みだが、今日使うのは第一層だけだった。
「救護班は、こちらでお願いします」
入口脇の空き区画を示すと、救護スタッフが持っていたケースを床へ下ろした。
「通路の中じゃなくていいんですか」
「機材の搬出と重なります。ここなら担架を広げても、入口を塞ぎません」
救護スタッフが通路と区画を見比べ、ケースの留め具を外した。
回復薬は六本。止血具と簡易担架も入っている。進行表の数量と照らし合わせてから蓋を閉じてもらい、予備の通信機は入口横の棚へ移した。
「それも奥へ持っていく予定でしたけど」
「通信障害が出た区画に、予備まで置く意味はありませんから」
「ああ、確かに」
通路側へはみ出していた機材箱を壁へ寄せる。照明ケーブルも、靴が引っかからないよう養生テープで端へ押さえた。
久世へ提出した進行表には、ここまで書いていない。救護班の位置と、搬入経路の確保だけだ。
箱を一つずらす。ケーブルを一本まとめる。
撮影が止まる原因を減らすための配置変更だと説明すれば、誰も反対しなかった。転倒で撮影が中断しても、負傷者の搬出で中断しても、久世にとっては同じ時間の損失になる。
「相原さん」
声に振り返ると、ミアが剣を抱えて立っていた。
前回と同じ装備だ。柄を握る指だけが、前回より白くなっている。
「今日も、最初は私ですか」
「その予定です。資料では、出るのも前回と同じ種類になっています」
「資料では……」
ミアの視線が剣へ落ちた。
予定という言葉を、そのまま受け取れなくなっている。
折り畳んだ地図を開き、第一通路に引いた赤い線を見せた。
「違うものが出たら、ここまで下がってください。この線から入口までは空けてあります」
「戦わなくていいんですか」
「想定していない相手なら、戦う側の準備もできていません」
「でも、配信中だったら……」
ミアの声が、そこで細くなった。
今日はリハーサルだと言えば済む話ではない。本番でカメラが回っている時にも下がっていいのかと、聞きたいのだろう。
胸元のスタッフ証へ指が触れた。
中へ入る資格は付いたが、撮影を止める権限までは書かれていない。
「本番でも、この通路には人と機材を置かせません」
赤い線から入口までを指でなぞる。
「戻る必要が出た時、振り返って道を探さなくて済むようにしておきます」
ミアは地図と通路を交互に見た。
壁際に寄せた機材箱。端へ固定されたケーブル。入口まで途切れずに続く床。
「分かりました」
返事と一緒に、剣を握っていた指がわずかに緩んだ。
隣で短剣の留め具を確認していたカリンと目が合う。今日は帽子もマスクもない。その口元が、少しだけ上がった。
「何ですか」
「ちゃんと幹事してるなと思って」
「仕事なので」
「そうですね」
カリンは笑みを残したまま、短剣を腰へ戻した。
「じゃあ、始めようか」
久世の声が通路へ響き、リハーサルが始まった。
先頭にミア。その後ろへカリンがつき、カメラと音声が一定の距離を空けて続く。俺は機材を載せた台車の横を歩いた。
予定地点へ着くと、奥から運ばれてきた荷台の拘束具が外された。
黒い犬に似たモンスターが床へ降りる。爪がタイルを擦り、濡れたような音を立てた。
ミアの足が止まりかける。
それでも剣を抜き、切っ先を前へ向けた。
カメラマンが、床へ貼った印を踏み越えようとする。
「その線まででお願いします」
「もう少し寄った方が迫力出るんだけど」
「そこはミアさんが下がる場所です。塞ぐと撮り直しになります」
カメラマンはレンズ越しに床の印を確認し、不満そうに一歩戻った。
音声ケーブルは壁際に収まっている。ミアの背後から入口まで、足を引っかけるものはない。
モンスターが低く身を沈め、床を蹴った。
ミアは半歩下がった。
背中が何かにぶつかることも、足がケーブルへ絡むこともない。噛みつきをかわし、すれ違いざまに剣を振るう。
最初の一撃は浅かった。
刃を受けたモンスターが首を振り、すぐに向き直る。ミアは追いかけず、剣を構え直した。肩が上下し、吸い込んだ息が喉で一度引っかかる。
二度目の突進を、今度は横へ流す。
空いた胴へ踏み込み、剣を深く入れた。
黒い体が床を滑り、壁の手前で止まる。
倒れた機材もない。スタッフの悲鳴も上がらなかった。
「終了です」
声をかけると、ミアの切っ先がゆっくり下がった。
「……倒せました」
「はい」
一歩下がった踵が、床の赤い線を踏む。
ミアはそのまま足元を見た。何にも触れずに下がれたことを、ようやく確かめたらしい。
「前より、動けました」
「後ろを探さなくて済みましたから」
「それだけで、こんなに違うんですね」
ミアの視線が、入口まで伸びる通路を辿った。
前回はその場所に、カメラとスタッフと機材が詰まっていた。
カリンが倒れたモンスターのそばへしゃがみ、傷口を確認する。
「綺麗に入ってる。私、何もしなかったね」
「すみません」
「どうして謝るの」
カリンが顔を上げた。
「一人で倒せたなら、その方がいいでしょ」
ミアの口元が、遅れて少しだけ緩んだ。
リハーサルは予定より十五分早く終わった。
負傷者はいない。機材の故障も、撮り直しもなかった。
「今日はやりやすかったな」
「このままなら撤収も早いぞ」
スタッフの声が、機材の車輪の音に混じる。
救護区画へ戻ると、回復薬は六本ともケースの中に残っていた。蓋を閉じる音が、妙に軽く聞こえた。
ミアは帰り際、剣を抱えたまま小さく頭を下げた。
「今日は、前ほど怖くなかったです」
「それなら良かったです」
そのまま撤収に入るはずだった。
「相原さん」
久世に呼ばれ、確認用モニターの前へ向かう。
画面では、ミアが二撃目を入れる直前で止まっていた。
久世が再生位置を戻す。
ミアが横へかわし、剣を振るう。モンスターが倒れる。もう一度、同じ映像が流れる。
「綺麗すぎるな」
「何がですか」
「ミアちゃんが、全然危なそうに見えない」
映像が、剣の入る直前で止まった。
「これだと成長したのか、相手が弱かったのか分からないんだよね」
「一人で倒せています」
「現場としては、それでいいよ」
久世は椅子の背へ寄りかかった。
「でも、配信としては何も起きてない」
白い画面の光が、久世の頬を照らしている。
入口脇に並べた回復薬も、空けた通路も、映像にはほとんど残っていなかった。
久世は立ち上がり、近くにいたスタッフを手招きした。
「本番、最初のルート変えようか」
「第二通路ですか?」
「もう少し奥から始めたい」
手元の進行表を開く。
今日確認した第一通路には、出演者の立ち位置と機材の配置が書き込まれている。その隣の第二通路は、区画名以外ほとんど空白だった。
「第二通路は、まだ下見が終わっていません」
「明日やればいいよ」
「入口から離れます。救護班の配置も、搬出経路も組み直さないといけません」
「その辺は、相原さんがうまくやって」
久世は笑いながら、第二通路の空欄を指で叩いた。
「本番は、もう少し画が欲しいから」
進行表の端には、予定より十五分早く終了した時刻が残っている。
久世の指はそこをもう一度叩いてから、何も書かれていない第二通路へ滑った。
今日、空けたはずの道へ。
もう次の荷物を置こうとしていた。




