第十五話 現場を止めない人
『相原さん? 昨日は助かったよ』
聞き覚えのある軽い声が、受話口から流れてきた。
『カリンちゃんから聞いたんだけど、次の現場、君に回してもらえないかな』
「回す、というのは?」
『進行だよ。スタッフの配置を見たり、出演者を誘導したり。昨日やってたようなこと』
昨日の通路が浮かぶ。
壁際へ押し込んだ機材。逃げようとしてぶつかるスタッフ。探索者が踏み込めるように、無理やり作った隙間。
確かに、現場は動かした。
頼まれてやった覚えはない。
「俺、正式なスタッフではなかったですよね」
電話の向こうで、久世が笑った。
『でも、正式なスタッフより働いてたじゃん』
借り物のスタッフ証で入り込み、部外者が勝手に指示を飛ばした。
普通なら、先に問い詰めるところだろう。
久世にとっては、使えたという事実だけで十分らしい。
『詳しい話、明日できる?』
指定された場所と時間を控え、通話を切った。
◇
駅から十分ほど歩いた先に、その雑居ビルはあった。
古びた外壁に、細長い窓。三階まで上がる階段には、剥がしかけの養生テープが残っている。
扉に貼られた制作会社の名前は、名刺ほどの大きさしかなかった。
中へ入ると、壁一面を過去配信のサムネイルが埋めていた。
炎に包まれたモンスター。
顔を血で汚した探索者。
床へ座り込み、泣いている新人。
写真の横には、再生数と投げ銭額が太い文字で印刷されている。どの紙も出演者の名前より、数字の方が大きかった。
「相原さん?」
奥の扉から、昨日のディレクターが顔を出した。
「久世です。昨日はどうも」
差し出された名刺を受け取る。
久世直人。
企画演出、現場統括。
白い紙の上では、ゴーレムを前にしても動かなかった男には見えない。
「どうぞ。狭いけど」
通された会議室には、長机と椅子が四脚あった。壁際には、昨日の配信で使われていたスポンサー商品の箱が積み上げられている。
久世はコンビニの紙コップを二つ置き、向かいの椅子を引いた。
「本当に助かったよ。あのままだったら、人も機材も通路で詰まってた」
「配信を止めることは考えなかったんですか」
コーヒーの蓋を外していた指が、一瞬だけ止まる。
「生だったからね。途中で切れば視聴者は余計に騒ぐし、スポンサーにも説明が要る」
「続ければ、人が死ぬかもしれなかった」
久世は蓋を机へ置き、俺の顔を見た。
怒るでも、気まずそうにするでもない。
「だから、危険な時にも回せる人が必要なんだよ」
廊下の向こうで、プリンターが紙を吐き出す音がした。
答えになっていない。
本人には、その自覚もなさそうだった。
「スキル、確認してもいい?」
差し出された端末へ触れると、俺のスキルが画面に並んだ。
久世の目が、上から順に文字を追っていく。
「幹事B、観察C、記録C、応急処置C、走力C、事務C、清掃C……」
最後まで読み終えると、紙コップを持ったまま笑った。
「いいね」
「どの辺りが?」
「現場を回すためのものばかりだ」
褒められている気はしなかった。
久世は椅子へ深く座り、ガラス越しに廊下の壁を見た。そこにも、再生数を記した紙が何枚も貼られている。
「剣術Aも、火魔法Aも、探せばいるんだよ。強くて画になる探索者は集められる。でも、強いやつを並べれば勝手に配信ができるわけじゃない」
紙コップを机の上で半回転させる。
「カメラがあって、照明があって、スタッフがいて、出演者が動く。昨日だって、君が通路を空けたからカリンちゃんたちは戦えた」
「俺は、配信を成立させるために動いたわけじゃありません」
コップの回転が止まった。
「分かってるよ」
久世は気を悪くした様子もなく、コーヒーを一口飲んだ。
「人を助けるためでも、配信を成立させるためでも、現場でやることが同じなら問題ない」
同じではない。
喉まで出かかった言葉を飲み込む。
ここで席を立てば、次の現場には入れない。
「具体的に、何を任せるつもりですか」
「人と機材の流れを見て、詰まりそうなら直す。出演者の立ち位置も、危ないと思ったら動かしていい」
久世が薄い契約書を滑らせてきた。
一日単位の業務委託。
報酬は、休日を潰すには十分な額だった。
守秘義務。
撮影データの持ち出し禁止。
現場責任者の指示に従うこと。
紙をめくる。
事故発生時の連絡系統はある。けれど、撮影を中止する条件はどこにも書かれていない。
「危険だと判断した場合、撮影を止めるのは誰ですか」
「俺だね」
「俺から中止を求めることは?」
「報告はしてくれていいよ」
久世は契約書の署名欄を指した。
「判断は、こっちでする」
俺が任されるのは、止めることではない。
止まらないように、人と機材を動かすことだ。
ペンを取る。
紙の上で、相原恒一の四文字が少しだけ歪んだ。
久世は署名を確認すると、契約書と引き換えに薄いファイルを差し出してきた。
表紙には、次回配信の企画名が印刷されている。
新人探索者ミア・特別成長配信。
カリンとの師弟共闘。
「進行表。細かいところは、相原さんがやりやすいように変えていいよ」
「初めて会った人間に、かなり任せるんですね」
「昨日、見たからね」
久世は椅子の背へ身体を預けた。
「ああいう状況でも、現場を止めなかった。任せても大丈夫だと思ってる」
ファイルの角が、指に食い込んだ。
止めなかったのではない。
止められる人間が、あの場にいなかっただけだ。
机の上で久世のスマホが鳴った。
画面を確かめるなり、彼は立ち上がる。
「じゃあ、今日はそんなところかな」
通話へ出る前に、久世は俺の持つファイルを指先で叩いた。
「次も予定外はあると思うけど、昨日みたいにうまく繋いでよ」
「予定外?」
「ダンジョンなんだから、何が出るか分からないだろ?」
久世は笑って通話を取った。
「はい、お疲れ様です。数字出ました? ああ、ミアちゃんの方――」
話し声を背中で聞きながら、会議室を出る。
廊下の壁には、泣いているミアのサムネイルが貼られていた。
赤い文字で記された再生数は、その隣で笑っている写真の三倍だった。
階段を下りながら、渡されたファイルを開く。
出演者の集合。
機材搬入。
リハーサル。
配信開始。
出演者の移動と、カメラの配置が分刻みで並んでいる。
何の変哲もない進行表だった。
二枚目をめくるまでは。
第二チェックポイントの後に、十五分の空白があった。
出演者の動きも、撮影内容も書かれていない。
備考欄にまで、何もなかった。
階段の踊り場で足を止める。
閉まりきらない窓から風が入り、ファイルの端を小さく揺らした。
予定外は、予定表には書かれない。
それでも、その十五分だけは、最初から場所を空けて待っていた。




